【母の日小説】ひねくれ者は犬に憧れる

ひねくれ者は犬に憧れる

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あー、これ完全にパンツまで行ったわ。
この近くにコンビニあったっけかな。

驚きのあまり固まった体と裏腹に、頭の片隅で冷静にそんなことを考えていた。

【オーディオブック】

やらかして、春

社会人二年目の春。
その日は仕事も捗ったし、お客様にも褒めてもらえたし、生まれてはじめて自販機の当たりを引いたしで、今日はめっちゃツイてんな!とそれはそれは浮かれまくっていた。

こんな日はひとりで静かに晩酌するより、誰かと一緒にパーッとやりたいよな、うん。

「俺の行きつけで焼き鳥がめっちゃ美味い店あるんだけど、今日空いてる?」
「ごちそうさまでーす!!」
「……いやまあおごるけども!」

はじめてできた後輩は人の懐に入り込むのがとても上手いやつだ。
大学の後輩というのもあって雑談の話題にも事欠かず、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
ビジネスマナーさえちゃんと身につければ、不動産の営業マンとして芽が出るのもそう遠くないだろう。

つい先日も「先輩みたいになれるようにがんばります!仕事のコツとかいろいろ教えてください!」なんて健気なことを言われたばかりだし――よいしょされてるのが分かっていても、まあ悪い気はしない――今日のエピソードを肴にすれば、とびきり旨い酒が飲めそうだ。

 

「中村先輩、大丈夫ですか!?」

そんな浮かれ気分に文字通り水を差した惨状をなんとか受け止めつつ、じわじわと肌着に冷たいものが染み込んでいく感触に思わず身震いした。

「……さーせんした」

事を起こした張本人はというと、反省しているのかいないのか、真顔のままボソリとつぶやいてから慌てる様子もなく倒れたグラスに手を伸ばす。
……と思いきや、またまた手を滑らせてガチャンと大きな音を立てた。

よく見たら指先が小刻みに震えている。
オーダーの取り方もなんとなくたどたどしかったし、まだ新人なんだろうな。
顔に出てないだけで相当パニクってんぞこれ。

「ちょっと、グラスひっくり返しといてそれだけっすか!?」
「まーまーまー落ち着けって」
「いや先輩はもっと慌ててくださいよ!」
「それは言えてる」

正直に言うと驚きすぎて怒るタイミングを逃しただけなんだが。
後輩が慌てふためきながら差し出したおしぼりを手にとったものの、即席の湖ができた股間に思わず苦笑いが出る。

ちょっと拭いたくらいじゃどうにもなんねーな。
今度防水機能付きのスーツ買いに行くか。

「お客様、大変申し訳ございません!ただいま拭くものをお持ちしますので……!」

騒ぎを聞きつけた他の店員が駆けつけて、頭を下げつつ問題の彼を引きずるようにして消えていった。
あの様子では、きっとやらかすのも初めてではなさそうだ。
今ごろ裏でこってり絞られてるだろう。

ふと、無愛想にうつむいていた彼の姿が、かつての自分に重なった。
実を言うと、あの日のことは今でもときどき夢に見る。
でも、こんなに鮮明に思い出すのは久しぶりかもしれないな。

ゆるゆると記憶の蓋が開くのを感じながら、気づけば 5 年前の思い出を噛み締めていた。

 


大学二年の春。
今で言う『ウェイ系』の友人に囲まれ、新しい環境にも十分慣れてきた――主に、単位の取りやすい講義をサボったり、サークル仲間と遅くまで遊び歩いたりするのが板に付いてきたという意味で――頃合いだった。

「中村くん、ちょっと話したいことがあるんだけど……いいかな?」

友達の誘いでちょくちょくサークルの集まりに顔を出すようになったミカは、何が面白いのかいつもニコニコふわふわと笑っている。
そんな彼女が珍しく深刻な顔をして呼び出すものだから、てっきりこれは、そういうことなんだと、心の中でガッツポーズしていた俺はたぶん悪くない。

前々からお近づきになるチャンスをこっそり狙っていたことを抜きにしても、だ。

「――それでね、今度思い切って告白してみようと思ってるんだぁ!あ~考えただけで緊張する~」

なんとなく、話の流れからして嫌な予感はしていた。
『実はその好きな人って、中村くんのことなんだよね……』というマンガのような展開に望みをかけたものの、この様子では残念ながらそれもない。

理想の告白シチュエーションについてああでもないこうでもないと、こちらを置き去りにしたまま延々と語り続けるのを引きつった笑顔で見ていることしかできなかった。

――いや待って?俺なんでこんな話聞かされてんの?よりによってなんで俺なの?

恋と呼ぶにはあまりに儚かったものが、少しずつ苛立ちに似た何かに変わっていった。
そんな感情がいつの間にか顔に出ていたのか、目が合った瞬間ミカがハッとした顔で口をつぐんだ。

「ごめんね、急にこんな話しちゃって。ビックリしたよね?」
「……あー、まあ。それはもう」

ビックリというよりガッカリだけど。

「なんか中村くんって、実家で飼ってた犬に似ててさ~!なんでも話せちゃいそうな気がして」
「……犬?」
「ほら見て~!かわいいでしょ!チョコっていうの」

ご丁寧にフォルダ分けまでしてあるスマホの画像を嬉々として見せつけてくるが、お世辞にもかわいいとは言えない顔つきなのが余計にショックだった。

このブサイクな犬のどこが俺に似てるってんだよ。
染めた髪の色がなんとなく毛色に近いこともない、くらいのもんだ。

「はあ~、なんか話したらスッキリしちゃった!聞いてくれてありがとう!」
「……どういたしまして?」
「先輩も中村くんみたいに話しやすい人だったら良かったのになぁ。好きすぎて普通に挨拶するのも緊張しちゃって、なかなか告白する勇気が出ないんだよね」

そうかい。
つまり俺は完全に眼中にないってことね。あーそう。
別に、なんとなく顔が好きだっただけで全然本気じゃなかったし。
そのナントカ先輩とお前がどうなろうと関係ねーわ。

「……そんなに好きなら告白でもなんでもしてみりゃいいじゃん」
「んーでも……うまくいくと思う?」
「いや、どう考えても無理っしょ。俺だったらミカみたいな女は絶対『ナシ』だわ」
「え!?」
「まーせいぜい頑張んな。当たって砕けろー!ってな」
「えええ~!?」

ふざけた風を装って、告白する気をくじきたい一心で悪態をついた。
困惑するミカを置いて、作り笑いが崩れる前にさっさとその場を離れる。

「あーもう……なんだってんだよ」

モヤモヤした気持ちが晴れないまま、逃げるようにバイト先に向かった。

 

「っしゃーせー!何名様ですか?」
「お待たせいたしました!生 4 つと串盛り、エイヒレ炙りでーす」
「申し訳ありません、本日こちらのメニューは品切れになっておりまして――」
「レジお願いしまーす!」

狭い店だから控室に居ても店の様子がだいたい分かる。
制服に着替えながら、今日は一段と忙しそうだな、と暗い気分に拍車がかかった。

バイト先は個人経営の居酒屋だ。
大学に近いのもあって学生客がメインの安くて汚……アットホームな雰囲気漂う店だが、出てくる料理がどれも美味いと評判になっている。
最初はまかない目当てで選んだが、店長含めバイト仲間はみんな気のいい人間ばかりで思っていたより居心地はよかった。
シフトに入っている間は死ぬほど忙しいことを除けば。

――まだなんもしてねーけど、もうすでに帰りたい。

いつもより時間をかけてのろのろと支度をしたものの、暗い気分はちっとも晴れない。
さて何から手を付けたもんか、と考えている間に無意識のため息が漏れた。

「中村ぁー、ボサッとしてないで働けー」
「っ、すんません!」

どこからともなく飛んできた店長の声に肩が跳ねた。
このところ凡ミス続いてるせいか、店長からの当たりが俺だけ若干強い気がするんだよな。
これ以上なんかやらかす前に気持ち切り替えねーと。

「っしゃーせーい!お席ご案内しまーす!」

いつもより一段と大きな声を出して、無理やりバイトモードのやる気スイッチを押す。
次から次へと増えていく仕事に振り回されるうちに、いつの間にかネガティブなことを考える余裕はなくなっていった。

 

「店員さん、注文良いかしら?」

いよいよ忙しさのピークという時間帯。
「富裕層の専業主婦」を絵に描いたような、おば……えー、マダムに声をかけられた。
常連とは明らかに客層の違う、小綺麗な格好をした中年女性の三人組だ。

なんでこんな店に?と気になり、オーダーを取りながら横目でさっと様子をうかがう。
お土産と思しき紙袋から察するに、近くの美術館に行っていたらしい。
土地勘があれば食事するだけでわざわざここを選ばないだろうから、観光客かな。

「えー。ご注文繰り返します、とん平焼きがおひとつ、和風チャーハンがおふたつ、バニラアイスがみっつと、ウーロン茶がみっつ。以上でよろしかったでしょうか?」
「よろしくないわ」

――ん?こんな短いオーダー聞き間違えるわけ……

「『よろしかったでしょうか』じゃなくて『よろしいでしょうか』よ。接客するなら言葉使いはきちんとね」
「イマドキの子って感じねー」
「ちょっと、決めつけちゃダメよ。美術館のお兄さんも同じくらいの歳だったけどきちんとしてたじゃない」
「やっぱりお店の格かしらねぇ」

おほほほほ、と楽しげに盛り上がるのを前に、思わず舌打ちしそうになったのをなんとか抑え込む。

「……大っ変失礼いたしましたぁ」

作り慣れたはずの接客スマイルがひどく歪んでいるのを感じながら、やっとの思いで言葉を絞り出してそそくさとその場を離れた。

あーもう、腹立つ。
今までこの店でバイトしてて言われたことねーぞそんなの。
金持ちってのはみんなこうなのか?それとも年齢層か?
すみませんねえ「イマドキの子」なんで。
その美術館のお兄さんとやらがどれだけご立派なもんか知りませんけども。

やり場のない苛立ちと一緒に、せっかく忘れていた嫌な記憶もうっかり思い出してしまった。
セピア色に染まったミカの笑顔がグルグルと頭の中を回る。
これならまだ犬呼ばわりの方がマシだったかもしれない。

他の席の片付けや配膳をしている間も、お高く止まった笑い声が聞こえてくるたびに胸の奥がズクズクと不快な音を立てた。

 

「店員さん、ウーロン茶のおかわりいただける?」
「――かしこまりましたぁ!おひとつでよろしかっ、よろしいでしょうか?」
「ええ、よろしくね」

『よくできました』とでも言うように目を細めるのを見て見ぬ振りして、大股で厨房に逃げ込んだ。

もうこれでかれこれ 3 回目だぞ。
他にも店員はいるってのに、なんで俺が通りがかったタイミングで声かけるんだ。
まさか狙ってやってるんじゃないだろうな。

先ほどまでよりいくらか落ち着いた店内を見回しながら、相変わらず楽しげに雑談しているのを苦々しい気持ちで見やった。
空になった皿を下げてからもう随分経つが、ソフトドリンクだけで未だに粘っている。

アルコールは一滴も入ってないのに、よくもまあこれだけ長いこと喋り続けていられるもんだ。
頼むからはよ帰れ。はよ。

「ほい、ウーロン茶いっちょー」

たまたま手の空いているタイミングだったのか、瞬速で注がれて出てきたグラスにうげっと声が漏れそうになる。
無意識にため息を吐いてしまってから、慌てて周りを見渡した。
誰にも聞かれていないのを確かめて、改めてひときわ大きく息を吐く。
無理やり力を込め続けた表情筋がすでに筋肉痛になりかけているのを感じながら、精一杯の作り笑いを貼り付けて踵を返した。

もうこれ以上余計な接触はしたくない。
さっと置いてさっと消えよう。
最速で無駄のない動き。最速で無駄のない動き……

「お待たせいたしましたウーロン茶で――」
「それでね、そのワンちゃん『チョコ』ってお名前らしいのよ」

不意に聞こえてきた覚えがありすぎるワードに、思わず意識がそれた。
やべっ、と思ったときには時すでに遅し。
いつもより勢いよくテーブルに下ろした手から滑り抜けていくグラスを、ただ見送るしかなかった。

「きゃああ!」

うちの店はソフトドリンクひとつにも手は抜かない。
他店を圧倒する濃さを誇るウーロン茶が、見るからに高そうな――実際いくらするのかは見当もつかないし考えたくもない――上品な服を大胆に染め上げた。

あーーもう、最悪だよ。
とにかく早く片付けよう。急げ急げ。

「すんませんっした!すぐ拭くもの持ってきますんで!」

この場に長くとどまりたくない気持ちと、一秒でも早く、と焦る気持ち。
言葉使いの件もこの瞬間は完全に吹き飛んでいて、いつもの調子に戻っていた。
そこにかろうじて保っていた作り笑いが重なって出来あがったもの。

『客の服を汚しておいて、薄っぺらく笑いながら軽い謝罪だけしてサッといなくなる店員』だ。
これはさすがに救いようがない。
今ならそう思えるが、そのときは自分がどんなに無礼なことをしているか気づく余裕がなかった。

「ちょっと、誰か!このお店の責任者を呼んでちょうだい!」
「一体どういう教育しているの?信じられないわ!」
「謝罪もろくにできないなんて!」

新しいおしぼりを手に取るより前に、ヒステリックな叫び声が店中に響き渡った。
居合わせた他の客もざわつきだし、騒ぎに気づいたホールスタッフと一緒に店長が慌てて駆け寄っていくのが見えた。

――あれ?なんか思ったより大事になってる?

グラスをひっくり返した瞬間よりも冷たい汗が背中に流れるのを感じながら、気持ち多めに取り出したおしぼりを手にそろそろと戻ってみる。

寄ってたかって声を張り上げるマダム達に詰め寄られ、見たこともないほど背中を小さく丸めて謝り続ける店長を見て、ようやく自分がしでかした事の重大さが身に沁みてわかった。

 

「中村、ちょっと」
「……はい」

御一行が店を出てしばらくして、ようやく店の中が落ち着いてきたころ。
いつになく厳しい顔をした店長に声をかけられた。
手錠をかけられた犯人よろしく、しおらしく頭を垂れて後についていく。

結論から言うと、最終的には『お代無料+クリーニング代』の提案で何とか事は収まった。
とはいえ当然、そこに至るまでがまたひと苦労だったわけで。
話し合いを進める間も常に「謝罪」「誠意」「弁償」といった言葉で繰り返し威圧され、騒ぎが起きてるのがレジのすぐ近くだから他の客も遠慮して帰るに帰れない……という悪夢のような時間だった。

「何が悪かったか分かってるか」

控室の小さな机に向かい合って座るなり、不自然なほど落ち着いた声でそう切り出された。
こういうときに怒鳴られないと逆に怖い。
じっ、とまっすぐ見つめられて、思わず目が泳ぐ。

「えー……こ、言葉使い?」
「いや、言葉に関してはちゃんと教えてなかった俺の責任もある。そこじゃない」
「……」
「謝り方、こないだ皿ひっくり返したときも教えただろ。あと、拭くもの取りに行くより俺を呼ぶのが先だ」

そう。
ついこの間も同じようなことをやらかしていたのだ。
あのときは相手が気のいい常連だったから、「バイトのミス」で簡単に済ませてもらえていた。
そのときは自分の対応が悪かったなんて微塵も思ってなくて、後から店長に呼び出されたのを不服に思ったことは覚えている。
『客にはちゃんと謝ったし、怒られなかったんだから別にいいじゃん』と。

たまたま相手が寛容だったから怒られずに済んだだけだ、ということが分かっていなかったわけだ。
そんな態度だったから、当然具体的に何を言われたかちゃんと覚えているはずもない。

「あー……その、なんてーか、あれですよね。向こうの態度もだいぶ問題ありましたけどね!そもそもこんな店に来る客じゃないっていうか、汚されて困る服でこんな店来んなっていうか」

居心地の悪さを何とかごまかしたい一心で深く考えず口を開けば、我ながらとんでもない責任転嫁が始まった。
口を動かすうちに御一行に対する腹立たしさも思い出してしまい、責める言葉にどんどん熱が入る。
店長の額にみるみるシワが寄っていくのが見えているのに、軽口は止まらない。

「飯食うだけなのにわざわざココ選んだのが間違いっていうか、もうちょい歩けばいくらでも店あるのにあんなでかい声でキーキー怒っちゃって。ははっ、こっちもいいメーワクっすよね!」

――これはだめだ。本当にだめなやつだ。茶化すな。笑うな。とりあえず素直に頭下げろ。

自分でもそう思うのに、真面目に謝らなければ、と考えれば考えるほど、意に反して顔も口調もヘラヘラと緩んでいく。
さっきまで必死に保っていた偽物の笑顔に、体ごと乗っ取られてしまったような気分だった。

「……もういいよ」

店長が口を開いて、ようやく壊れたように動き続けていた口が止まった。
薄い壁越しに、厨房やホールの物音がかすかに聞こえてくる。

「お前、明日からもう来なくていいよ。シフトは別の子に入ってもらうから」
「――えっ」
「今日までのバイト代はちゃんと出すから。あともう帰っていいよ、おつかれさん」

店長はそれだけ言い残して、何事もなかったかのように控室を出ていった。
今からでも追いかけて頭を下げろ、と叫ぶ良心に気づかないふりをして、そのまま力なく制服のボタンに手をかける。

――そりゃね。こんなバイト俺でもクビにするし。当然っしょ。

もうここまで来たら、謝ったら逆に負け。
そんなしょうもない見栄を張って、淡々と帰り支度をする。
本来の退勤時間まであと 30 分程度しかない。
もたもたしてると他のバイトたちと――今ごろ俺がいかにヤバい態度を取ったか聞かされているはずだ――鉢合わせることになる。
そんなハズい思いをするのはまっぴらごめんだ。
はい、今までお世話になりましたーっと。

いつもより大雑把に畳んだ制服をロッカーに押し込み、足早に店を出た。
ああ、辞めるなら制服洗わないとかな、と一瞬思ったが、どんな顔して返しに来んだよ、と一人ツッコんで頭を振る。
放っておけばそのうち誰かが気づいて洗濯してくれるだろう。

しばらく歩いてから振り返り、明かりの灯った看板を遠目にぼんやりと見る。
他の店のそれより多少見慣れているだけのはずなのに、なんだか無性に寂しくなった。

 

部屋に帰ってくるなりベッドに転がり、長い長いため息を吐く。
舞い上がった埃が視界にチラついてうっとうしい。
一日の疲れがどっと出て指ひとつ動かすのも面倒になり、そのまま天井を見つめ続けた。
疲れているはずなのに、なぜか眠気は沸いてこない。
いっそこのまま寝落ちしてしまえれば余計なことを考えずに済むのに。

今日の出来事が何度もフラッシュバックするのを疎ましく思っていると、ふいに床の方から聞き慣れた低い音がかすかに聞こえてきた。
無視を決め込むつもりで、ベッド脇に放り投げてあったカバンに背を向ける。

――今さらなんだよ。何言われたって謝らねーから。

着信が切れるのを待ってみたものの、なんとなく、店からの電話ではないような気がしてカバンに手を伸ばす。
スマホのディスプレイに表示された『母さん』の文字に、目頭がギュッと熱くなった。

一人暮らしを始めてから、いろいろ詮索されるのが面倒でろくにメールも電話も返していなかった。
このところは諦めたのか、仕送りのときに「送ったよ」と事務連絡のような LINE しか来なくなっていたのに。
なんで今日、このタイミングで電話かな。

「……もしもし」
『あらっ、つながった!もしもーし元気にやってる?』

底抜けに明るい、懐かしい声。
昔はこの空気を読まない明るさに嫌気が差していた時期もあったが、今は不思議と心が安らぐ。

「んー。まあ、ぼちぼち」
『ぼちぼちかあ。なんか鼻声じゃない?風邪引いた?』
「……ん、別に。たぶん花粉症」
『あらま。実家うちにいたときは平気だったのにねえ』

大学はどうだ、ちゃんとご飯は食べてるか、という取り留めのない雑談をしているうちに、良くも悪くもだんだんいつもの調子を取り戻していった。
飯の話題ついでにいつも送ってくれている仕送りの礼をしないと、とは思ったものの、なんとなくバイトの話になりそうな予感がして無理やり話題を変えた。

「……で?なんか用事あったんじゃねーの?」
『え?ああ、そうそう。お父さんと相談して決めたんだけどね、実は――』

キャンキャン、と遮るように聞こえてきた甲高い鳴き声にスッと胸が冷えた。
スマホ片手に微笑むミカの顔が頭をよぎる。

『こらこらっ、シー!今お電話してるから静かにね』
「……え、何?まさか犬?」
『そうなの!マルチーズの男の子でねー、白くてふわっふわでかわいいのよー!』

話を聞いてみると、保護施設から引き取ってきた犬のようだ。
元の飼い主が病気で入院になったが、世話を頼める人間がいなかったため保護されたらしい。
亮太が家出たら寂しくなるから犬でも飼おうかしら、と引っ越し前に言っていた気はするが、まさか本当に飼い始めるなんて。

『トライアル終わって、今日から正式に我が家の家族になりました!ってことで、これからよろしくね』
「……犬相手に“家族”とか、大げさ」
『あら、そんなこと言って。亮太もこの子に会ったらぜーったいメロメロになっちゃうわよ!』
「俺猫派だし」
『そんなの関係ないの、“うちの子”が世界で一番かわいいのよ!ね、りょーちゃん』
「……は?急に何?」
『あはは、亮太じゃなくって、ワンちゃんの方よ!りょうたろうってお名前なの。渋くていいでしょ?』

どうやらこの新参者を、幼かった頃の俺と同じ愛称で呼んでいるらしい。
しかも『りょうたろう』って。名前ほぼ被ってんじゃねーか。
なんなんだ全く。どいつもこいつも。そんなに犬がかわいいかよ。

『元の飼い主さんにかわいがられてたみたいでね。まだちょっと手がかかるけど、素直でいい子なのよー』

どんな顔で笑っているか、見なくてもわかる。
相変わらず聞こえてくる吠え声にも、気を悪くしている様子は全くない。
うるさく吠え散らかすだけの犬が、素直でいい子だって?

『最初は人間の子どもと同じようなものかなーって思ってたんだけど、亮太のちっちゃかったときと全然違うわ!お世話のしがいがあって毎日楽しいわよー』

そうじゃないと分かっているのに、なぜか「亮太と違って素直だから」と言われている気がして。
まだ見たこともない犬一匹に、腹が立って仕方がなかった。

「……良かったじゃん、“かわいい息子”ができて。せいぜい大事にしろよ」

言うだけ言って返事も待たず通話を切り、気を紛らわすためにテレビをつけた。
程なくして襲ってきた罪悪感に、頭を抱え込んでベッドに沈む。

「お前の!そういうところが!だめなんだよおおお!」

ドンッ!と隣室から不満げな音が響いてきて慌てて口をつぐんだが、すでに出してしまった言葉は元に戻せない。
今日一日で犯した失言の数々に改めて打ちのめされるうちに、さっきまでとは違う種類の涙が沸いてきた。
テレビから漏れてくる笑い声にさえ、けなされているような惨めさを感じてしまう。

――俺、いつからこんな面倒くさい性格になったんだろ。昔はもうちょっとかわいげってヤツがあったと思うんだけどな。

じわじわと歪んでいく天井を見つめながら、昔の記憶――「好き」も「ごめんなさい」も「ありがとう」も、今よりはもう少し素直に言えていた頃――に思いを馳せた。

 


19の夜

その当時、幼い男子たちを虜にしていた「超光戦隊ダイアマン」という作品があった。
ダイアのように硬く力強い拳で敵と戦い、力尽きた敵を正義の光で照らして改心に導く、というのがお決まりのパターンだ。
俺にとって彼らはこの世で一番かっこよくて、強くて、心優しい最高のヒーローだった。

「りょーた、まだ『ダイアマン』みてるの?」

小学校に入ってしばらくして、はじめてできた友だちに言われた言葉。
まだ、という言葉の意味はその場で理解できなかった。
後になって「もう小学生になったのに、『ダイアマン』なんて」という意味だったと知ったとき、ようやく気づいた。

「こんなものは子供が観るもので、小学生にもなって好きと言うのは、恥ずかしいことなんだ」と。

それからは、クラスメイトが話題にしていたギャグアニメを進んで観るようになった。
笑いのツボはよくわからなかったが、週明けの話題に乗り遅れることがなくなって友だちは増えた。

『ダイアマン』なんて、敵倒してピカーッってするだけだもん。よく考えたら全然おもしろくないよ。
こんなのが好きなのは、幼稚園までだもんね。
ぼくは……オレはもう『小学校のおにいさん』なんだから。
今はよくわからないギャグも、もっと大人になったら、みんなと同じように笑えるようになるんだろう。きっと。

 

 

中学に入った頃、彗星のように現れたグループアイドル『SBY39』で世間の話題は持ちきりだった。
テレビで見ない日はなく、街を行けばそこかしこでヒット曲が流れていた。
中でも人気上位 7 人は特別に『極 7』と呼ばれ、誕生日を迎えたとか、新しいペットを飼い始めたとかいう些細なことでニュースになるほどの大流行ぶりだった。

「なーなー、SBY の中で誰が一番好き?」

誰もが知るアイドルの話題は、知り合ったばかりのクラスメイトと打ち解けるためのとっかかりにちょうど良かった。
近くの席同士で顔を寄せ合って、雑談ついでに顔と名前を把握していく。
出身小学校や入りたい部活について話すより、手っ取り早く盛り上がったのは言うまでもない。

「断然ゆいたんっしょ」
「佐藤舞かなー」
「るりるり!」

周りが次々と『極 7』のメンバーを挙げていく中、ぼんやりと SBY のメンツを思い浮かべた。
実を言うと、世間が言うほどこの話題に興味はなかった。
もてはやされている『極 7』のことを、あまりかわいいと思えなかったせいもあるかもしれない。
ただ、そんな中でも唯一、テレビで歌っているときに画面の端に見切れていないか探すのが楽しみな子がいた。
トレードマークのえくぼと、アイドルなのに『どこにでもいそうな素朴な顔』が印象的だった。もちろんいい意味でだ。

「俺は、ゆ……水嶋ゆりあ」

言った瞬間、なんとも言えない気まずい雰囲気を肌で感じた。
口に出さなくてもわかる。「なんで?」と思われてしまったのが。

「え、マジ?水嶋ゆりあ?」

追い打ちのように誰かが放った言葉に、一気に顔が熱くなった。
『ゆーりん』という愛称で呼ぶのをギリギリでこらえたものの、『極 7』以外のメンバーを出した時点で SBY オタクと誤解されるかもしれないとは思った。
でもまさか、こんな雰囲気になるなんて。

「いやっ、その……俺も最近知ったんだけどさ!ほらっ、こないだ『すごドキ』でやってた変顔特集!いっちばんブサイクで笑える顔してたんだよ!」

俺としては、かわいい顔を歪ませて必死になる姿に少しショックを受けたくらいなのだが。
バラエティ番組で披露していた顔やポーズを全力で真似して見せてみてようやく「ああアレか」「たしかにひどかったよな」「再現度たけー」と笑いながら納得したようだった。

「いやでも、それで一番好きって変わってんな?」
「……女なんて、かわいいより笑えるほうがよくね?芸人みたいで見てて面白いし」
「あーね。B 専なんかと思ってビビったわ!」
「ははっ……」

乾いた笑いで調子を合わせながら、真新しい制服のボタンをカリカリと指先でいじる。
話題が好きなお笑い芸人にシフトしてからようやく、ほっと胸をなでおろした。

自分がバカにされるのが怖くて、つい出来心でやってしまったことだった。
でも、このとき俺は知ってしまった。

「自分のことを笑われるより、ふざけたり軽口を叩いたりして笑いを取りに行ったほうが、楽だ」と。

それからは、事あるごとに芸能人のモノマネやしょうもないギャグで周りを沸かせるようになった。
男女問わずアイドルをけなしたようなことをよく言ったので、一部からは不評を買っていたが、頭の軽い男子たちにはこれがまあよくウケた。

母親を『くそババア』呼ばわりして胸を張っている周りにつられて、母さんに余計な悪態をつくようになったのも、たしかこの頃からだ。

いつしかゲラゲラと下品な笑い声に囲まれるのも慣れっこになり、最終的には卒業文集のムードメーカーランキングでクラス 1 位を獲得するまでになっていた。
水嶋ゆりあのことを自ら口にしたのは、後にも先にもその一回きりだったような気がする。

 

 

高校はサッカー部が強いところを選んだ。
理由は当然、女子にモテたかったからだ。
中学時代はキャラ設定をミスったせいで男子ばかりに囲まれていたが、運良く顔なじみがいないクラスに入れたのを機に『おふざけキャラ』は封印することにした。
ただ残念なことに、同じクラスに絵に描いたような美少年がいたせいで、女子の注目は根こそぎ持っていかれてしまった。

思い描いていた青春が脆くも崩れ去り、想像以上にキツい部活に早くも飽き始めていた頃。
別のクラスの女子に、一目惚れをした。

きれいな黒髪に白い肌。
制服の上からでもよくわかる、すらっと長い足。
横顔が『ゆーりん』に似ていないこともない、かもしれない。

それこそマンガみたいな話だが、まさに雷が落ちたような衝撃だった。
大っぴらに詮索するのは気が引けたので時間はかかったが、どうやらバレー部所属らしいということがわかった。
この学校は女バレもそこそこ強い方だ。
対抗心のような何かが芽生えて、投げ出しかけていた部活をもうひと頑張りしてみようと思えた。

堂々と接触する勇気が沸かないまま時は過ぎたが、3 年になったタイミングで運良く同じクラスになった。
これでも頭は悪くない方だったので、進学希望にしておいたのが功を奏した。
この頃には片思いをこじらせまくっていて一生話をすることもないと思っていたから、逆に運命のようなものを感じて舞い上がっていた。
もしフられたら卒業まで地獄だぞとか、そんなことは微塵も考えなかった。

「俺と……つ、付き合ってください!」

まだ挨拶以外の会話をろくにしていない。
『校内なら誰もが知るイケメン』でもない。
もしかしたら、まだ名前も覚えてもらえてないかも。

いざ告白してからようやく気づいて内心絶望していたが、驚いたことにその場で OK してもらえた。
高校 3 年にして、ようやく俺にも春が来たのだ。

部活終わりに、手をつないで帰ったのがはじめてのデートだった。
何を話していいかわからず、久しぶりに解禁したギャグで笑ってくれたのに味をしめた。
普段は大人しくしていたのもあり『ふたりきりのときだけ面白いことを言ってくる彼氏』というポジションを手に入れた。
人をこき下ろす『けなし芸』には見切りをつけ、誰も傷つかないちょっとした小ボケばかり披露するようになった。
明日は何言って笑わそうか、と風呂に浸かりながら考えるのがいつしか日課になっていた。

そんな幸せな日々に終止符を打ったのは、他でもない俺自身だった。
見慣れたすっぴんジャージとは全く雰囲気の違う着飾った姿でデートに来た彼女に、あろうことか「気合い入れすぎ」などと暴言を吐いてしまったのだ。
傷ついた表情を見てすぐ、やっちまった、と後悔したものの、挽回しようと焦れば焦るほど余計な悪態が口をついて出た。

あのとき何であんなひどいことを言ってしまったのか、今でもよくわからない。
あえて言うなら「あまりのかわいさに脳がバグった」としか表現のしようがない。

ただひと言、素直に「かわいい」と言えばよかったのに。
せめてその後すぐ「変なこと言ってごめん」と謝ればよかったのに。
なぜだかそのときは、それがものすごく恥ずかしいことのように思えて仕方がなかった。

結局そのあとも素直に謝ることができず、受験直前のクリスマスにケンカ別れという最悪の結末になった。
幸い受験は合格したものの、一緒に喜んでくれるはずの彼女はもう隣にいなかった。
どうせなら、付き合っている間も気恥ずかしくてストレートに言えなかった「好き」という気持ち、もっとちゃんと伝えておけばよかった。

 

 

大学に入ってからは、とにかく楽をすることばかり考えていた。
受験勉強なんて彼女と一緒に過ごすのが目的で、やりたいことなんて特になかったせいもある。

プライベートを邪魔されるほど活発ではないが、気が向いたときに気軽に遊べる連中が集まる『ちょうどいい』サークルを見つけられたおかげで、人間関係ではとても楽ができた。
気の合う仲間とダラダラ過ごし、特に刺激もない緩やかな大学生活は、それはそれでまあまあ楽しかった。
仲間たちに連れられて何度も合コンに参加したが、どうしても盛り上げ役に徹してしまうせいか上手くいかなかった。

そんな良くも悪くも変わり映えしない日常に突如現れたのがミカだ。
『友だちの友だち』程度の間柄なのに、しっかり目を見てニコニコと笑いかけてくれるのが嬉しかった。
最近になってようやく気づいたが、どうやら俺はよく笑う女が好きらしい。
「もっと近くで、もっとたくさん笑う顔が見たい」と思うようになるのに時間はかからなかった。

誰にでも同じように笑いかけていることは、薄々分かっていた。
それでも気づかないふりをしていれば、そのうちチャンスが巡ってくるような気がしていた。
結局告白すらできなかった上に、無駄に傷つけるような言葉を吐いてしまった。
惚れた弱みで言うわけじゃないが、もし本当にミカが意中の相手に告白するならきっとうまくいくだろう。
どうせ失恋するなら、あのとき素直に「好きだ」と言っておけばよかったな。

 

 

入学してすぐ始めたファミレスのバイトは、半年も持たなかった。
正直に言って、俺は決して仕事がデキる方じゃない。
気配りができる方ではないし、何度も同じミスをするし、接客も適当だし。
前のバイトでは毎日のように「ヘラヘラするな」と怒られていた。
そんな俺でも今日まであの店でバイトを続けてこられたのは、仲間が気の合うやつばかりで、店の雰囲気も俺みたいな『軽いノリの学生』と相性が良かったおかげだ。
それに店長も、俺みたいな出来の悪いバイトでも決して怒鳴ったりしない。
褒めるときはちゃんと褒めてくれるし、ダメなところは具体的にどうしたらいいかまで教えてくれる。
理想の上司を絵に描いたような人だ。
それなのに、せっかく巡り会えたいい職場を、また自分の悪い癖のせいで追放されてしまった。

普通だったらその場でクビを切られたかもしれないところで挽回するチャンスをもらえたのに。
あそこで素直に頭を下げさえすれば店長は許してくれる人だと分かっていたのに。
全部全部、自分の手で握りつぶしたのだ。

 

ああ……素直になりさえすれば、もっと上手くいったはずのことがたくさんあったのに。
本心をさらけ出すのを怖がりすぎて、どうすれば素直になれるのかなんて、もう忘れてしまった。
それでももう、こんな思いはしたくない。もう誰も傷つけたくない。
どうすればいい?どうすれば素直になれる?

誰か、誰でもいいから、教えてくれよ――

 


腹の上で震えたスマホに、ハッと目が覚める。
どうやらいつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
こめかみに伝った涙の跡を拭いながら確認したディスプレイには、母さんからの LINE 通知が 4 件。
『今日のりょーちゃん♡』というメッセージとともに、白く小柄な犬が飯を食っているところ、楽しげに散歩しているところ、だらしなく舌を出して寝ているところの写真が送られてきていた。

 

母さんは、さっきのことをどう思ってるんだろう。
嫉妬と呼ぶにはトゲがきつすぎる物言いだったと自分でも思うのに、それを気にしている様子はない。
そういえば、中学に入って生意気な口をきくようになったときもちょっと驚いたような顔をするだけで、怒ったり腫れ物に触るような扱いをしたりということはなかった。
俺の態度や考え方がどんなに変わっても、母さんはいつも何もなかったように明るく笑って受け流してくれていた。

――「叱られるうちが華」なんて言うし、実はもうとっくの昔に見限られてたりして。

そんなひねくれたことを考えかけて、振り払うように頭をかきむしった。
昔は、この底抜けな明るさにイライラして事あるごとに余計なひと言で突っかかっていた。
それも今思えば、こちらの変化に何の反応もなかったのを無関心と誤解して腹を立てていただけだ。
めんどうな『構ってちゃん』もいいところだ。
毎月欠かさず食べ物の仕送りをしてもらっておいて『見限られてる』なんてわけがない。
今日だってわざわざ連絡をくれたのは、離れていても家族として見てくれているからこその『新入り報告』だったはずだ。
こんなしょうもない息子でも、ちゃんと大事にしてくれてる。それだけは間違いない。

ふと、送られてきた画像に改めて目を落とした。
『おいしい』『たのしい』『しあわせ』。
人間の言葉が喋れなくても、そんな感情が画面越しにひしひしと伝わってくる。
自分を傷つけるかもしれない相手に無防備な姿を晒すのは、とても勇気がいることだ。
この犬はきっと、母さんのことを『新しい家族』と認めて、心の底から信頼しているんだろう。

素直でいい子、か。
写真を見るまではただうるさいだけの犬だと思っていたのに。
これだけ全身で「信頼しています!」と表現されたら、母さんが夢中になるのも仕方ないか。
俺はあくまで猫派だけど。うん。いやまあ。犬も別に嫌いってわけじゃないけどさ。
いや、違うか。犬だって、まあまあ、結構好きなことには違いない。
もう少し具体的に言うなら……そう。
このふわふわで柔らかそうな体を、もふもふしてみたい。撫でくりまわしたい。

「――別に、メロメロにはなってねーもん」

だから言ったでしょ?と母さんに笑われている気がして、ムッと口を尖らせた。
まだだ。まだ負けてない。猫の方がかわいいのは譲らねーぞ。

『あっちちち』
『パパがんばれー!』

ふいにテレビから流れてきた慌ただしい声に目が向いた。
小さな男の子と父親が、悪戦苦闘しながら料理や洗濯に励んでいる。
ああ、もうそんな時期か、と思いながらぼんやりと眺めた。

何も珍しいことはない、毎年この時期になると見かける大手食品メーカーの母の日 CM だ。
もう何年も同じものを繰り返し流しているのを見るに、きっと好評なんだろう。
最後に家族みんなで食卓を囲みながら感謝の言葉を伝えて、母親は笑いながら目元に涙を浮かべるというほっこり感動系の話だ。

『一番嬉しいのは、あなたからの”ありがとう”』

これまで何度も聞いてきたナレーションが、なぜか今日はやけに心にしみる。
母の日のプレゼントなんて、小学生の頃学校に作らされた折り紙のカーネーションやら作文やらしか記憶にない。
母さんに「ありがとう」と素直に言えたのは、もしかしてそのときが最後だったんじゃないか?
感謝を伝える機会なんて、今まで山程あったはずなのに。

改めてスマホの画像をじっと見つめる。
俺も、こいつみたいに素直になれたら何か変わるんだろうか。
こんな俺でも、今から変われるかな。

「……今年は何か、してみっか」

 

母の日のプレゼントとして真っ先に思い浮かんだのはド定番のカーネーションだが、その選択肢はすぐさま消去法で儚く散った。
まず花屋に行くのがハードル高いし、カーネーションを選んだ時点で「ああ母の日ねフフフ」と店員に思われるのも癪だし、その上その花を抱えて実家まで帰るなんて難易度が高すぎる。
もしうっかり大学の知り合いに見つかったら……と想像しただけで恥ずかしすぎて爆発しそうだ。
母さんにプレゼントを贈るだけでも勇気がいるのに、それ以上の『素直さ』は今の俺には刺激が強すぎる。

「よしわかった、とりあえず花はやめよう。そうしよう」

一人暮らしを始めてからすっかり癖になった独り言で頭を落ち着かせる。
とはいえ、他に何がいいかと考えてもいい案は浮かんでこない。
まさかこの歳になって折り紙のカーネーションを作るわけにもいかないし。
試しに『母の日 プレゼント』などと検索してみたが、ピンと来るものは見つからなかった。

「母さんがもらって喜ぶものって、そもそも何だ……?」

あの性格だから、色違いの折り紙を二枚渡して「自分でカーネーション作って、それプレゼントね」なんてフザけたことをやっても笑って受け取りそうだ。
でもそうじゃない。そうじゃなくて、真面目なやつで……ちゃんと喜んでもらえるもの……母さんの好きなもの……

「――そうだ、コーヒーカップ」

母さんは大のコーヒー好きだ。
まだ俺が一人で起きられなかった小さい頃、朝起こしに来る母さんは決まってコーヒーの香りをまとっていた。
愛用しているマグカップは決して高いものではないはずだが、何か思い入れがあるのかフチが欠けた状態で長年使い続けているのを思い出した。

「新しいマグカップもいいけど、どうせなら割れたり欠けたりしないで長く使えるやつがいいかな」

割れないカップか。
スタバとかに置いてあるアレってたしかタンブラーだよな。
コーヒーによく合うタンブラーとかあるんかな。
そう思って、今度は『コーヒー好き プレゼント タンブラー』で検索してみた。

「……『世界に一つの名入れタンブラー』?なんだそれ」

興味本位でタップした記事は、名入れギフトというものを扱っている店のものだった。
そういえば、最近テレビで名前入りのグラスの CM を見た気がする。
結婚して家を出た娘から両親へのプレゼント、という設定だったと思うが、もらった二人はえらく嬉しそうにしていたな。
同じものでも自分の名前が入ってるだけで印象が変わりそうだし、プレゼントにはちょうどいいかも。

「おっ。これいいな」

羅列された商品紹介を流し読みしているうちに、母さんが好きそうな色のタンブラーが目に止まった。
見本写真で名前の彫刻と一緒にあしらわれている花模様は、一度は諦めたカーネーションだ。
今使ってるマグカップもたしか花柄だったし、きっと母さん気に入るだろうな。
促されるままリンクからたどり着いた商品ページで、ポチポチと注文内容を埋めていく。

「……メッセージ、か」

このタンブラーは名前と一緒に簡単なメッセージも彫刻できるらしい。
メッセージカードの類を別に用意するまでもなく、プレゼント自体にメッセージを入れてしまえるというわけだ。
感謝を伝えるなら、サンプル通りの『Special Thanks』が無難かな。
それか普通に『Thank you』とか?『I appreciate you』だとかしこまり過ぎか。
いや待てよ、それ以前にこれ……これ……んんんー。

しばらく首を捻りながら考えたものの、メッセージ欄の文字を入れては消し入れては消しを繰り返すばかりでなかなか決心がつかなかった。

名前と一緒に、消えないメッセージを贈る。
いや、分かってる。そういうのがウリなのは重々承知だ。
分かってはいるんだけど。
恥を忍んでかき集めた素直な『ありがとう』の気持ちが「文字として半永久的に消えずに残る」というのがどうにも耐えられない。

もう母さんの名前だけでよくないか。
いや、それもよくよく考えたらなんか恥ずかしいし、名入れなしでいいか。
待てよ、それなら別にコレじゃなくていい気がしてきた。
てか俺、本当に母の日のプレゼントすんの……?

「……やっぱやめようかな」

考えすぎて熱を持った頭を枕に埋め、スマホの画面から目をそらした。
慣れないことはするもんじゃない。
別にいいだろ、これまでも毎年何もしてなかったんだから。
誰かに叱られるわけでもないし。

「……だから、そういうのがダメだって、もう分かってんだろ」

さっき見たばかりの走馬灯のような夢が、瞼の裏にチラチラとよぎる。
こうやって逃げてばっかりいたせいで、さんざん痛い目を見てきたんだ。

「あーもう、どうにでもなれ!」

正気に戻ってしまう前に、と一気にメッセージを入れてカートに放り込んだ。
どうせなら手渡しのほうが良いんじゃないか?と囁く声が聞こえた気がしたが、そちらはあえて無視してそのままの流れで配送先に実家の住所を入れていく。

今の『素直モード』が数日後も続いているとは思えない。
せっかくのプレゼントが渡せずに終わるくらいなら、多少素っ気なくても確実に届くほうがいい。
絶対今日中に決着をつけてやる!うおおおおお!

「……。や、やりきった」

注文確定画面が無事に表示されたのを見て、天を仰いだ。
安堵と疲れが入り混じった長い長いため息とともに再びベッドに寝転がる。
気づけば窓の外がもうずいぶん明るくなっていた。
少しうたた寝しただけのつもりだったのに、どうやらガッツリ眠ってしまっていたらしい。
とはいえ、見た夢の内容のせいか、慣れないことに頭と気力を使い果たしたせいか、身も心も全く休んだ気がしない。
むしろ家に帰ってきたときの 100 倍疲れている気さえする。

そういえばシャワー浴びるのも忘れてたけど、もういいや。
今日は土曜だし、バイトの時間までまだまだあるし、ゆっくりもう一眠りしよう……

「――、そっか。もう行かなくていいんだ」

眉根を寄せた店長の顔を思い出して、胸の奥が苦しくなった。
毎回行くのがめんどうだったバイトなのに、いざその必要がなくなってみたら心惜しく思っている自分がいる。
グラスのこすれる音や厨房の調理音、大して中身のない話で盛り上がる客の騒がしい笑い声までもが妙に恋しく思えた。

「……。制服をさ。取りに行く体で、な」

せめて、後悔のないように。
やれるだけのことはやってみよう。

 

素直になりたくて

気持ちよく晴れた昼下がり。
従業員用の裏口の前にたどり着いてから、もうかれこれ 10 分以上経つ。
ドアの前をうろついたり、深呼吸してみたり、壁に張り付いて中の物音に耳をそばだててみたりと、中に入る勇気が出ないまま不審極まりない行動を繰り返していた。

店長は料理の仕込みでいつも早くから店に入り浸っているから、この時間なら二人きりで話ができる。
そう思って来てみたはいいものの、ドアノブに手をかけた途端に穴の空いた風船のごとく勇気が弾け飛んでしまったのだ。

いったん店から離れ、少し奥まったところに止めてあった自転車のミラーを覗きながら何度も髪をなでつける。
せめて格好だけでもちゃんとしようと、いつも遊ばせている髪は自然に下ろしてみた。
イジらないとボリュームの出ない猫っ毛のせいで、必要以上にペタンとなってどうにも恥ずかしい。
やっぱりいつも通りにセットすればよかった。

「ちょっと君、どいてもらえんかねぇ」
「えっ。あ、すんません」

自転車の主と思われるおばちゃんに声をかけられて、慌てて身を引いた。
そのままこちらに一瞥もくれずに去っていくのを見送りながら、グッと拳を握りしめる。

大丈夫、大丈夫。
今だって、言葉はともかくちゃんと謝れた。
とにかく頭下げて、ひと言謝る。それだけだ。店に入りさえすれば、なんとかなるはず。

「……よし、いくぞ!」

もう一度深く息を吸ってから、勢いよく裏口のドアを開け放った。

「――ん?」
「えっ」

なんてこった。
奥で仕込みをしていると思っていたのに、控室の机で事務作業の最中だったらしい。
何をどの順番でいうか一度整理してから声をかけるつもりが、バチッと目が合った瞬間に頭が真っ白になってしまった。

「……お、お、おはざぁーす!!」

そのまま黙ってドアを閉めてしまいたい気持ちと戦いながら、何とか挨拶の言葉を絞り出した。
もうこうなったら仕方ない。ぶっつけ本番でもやることは同じだ。

「おう、おはよう。そこは従業員用の入り口なんだがな」

何食わぬ口調で遠回しに『部外者』扱いされて、思わず唇を噛みしめる。
でも、ここで退くわけにはいかない。

「あ、あの……昨日は、本当に、すみませんでした!」

震える声で単語をひとつひとつ区切りながら、何とか口の外に押し出した。
目を見ながらだと途中で逃げ出したくなってしまいそうで、深々と頭を下げたまま言葉を続ける。

「俺……俺、覚え悪いし、態度も悪いし、仕事雑だし、たまに……結構遅刻もするし、今までいっぱい迷惑かけてきたと思うんですけど」

喋っているうちに、惨めさで鼻の奥がツンと痛くなってきた。
本当に、客観的になればなるほどしょーもないバイトだったんだ、俺は。

「それでも俺、この店が好きです。バイト終わりに店長が作ってくれるまかないも、一緒に働いてるみんなも……だから、だから……俺にもう一度だけチャンスをください!!」

そこまで言ってしまってから、はたと我に返った。
俺、許してもらおうなんて思ってなかったはずなのに。
謝るだけ謝って、大人しく制服を持って帰るだけのはずだったのに。

ああ、そうか。
俺、自分で思ってたよりこの店のこと好きだったんだ。

「……まかないかあ、そう来たか」

やけに明るい声色に恐る恐る顔を上げてみれば、なぜか店長はニヤニヤと含み笑いを浮かべている。

「どうせならウソでも『店長に憧れてるんですー』とか言ってくれた方が気分がいいんだが、まあ。せっかく素直になりつつあるところにお世辞仕込むのも気が引けるしなあ」

これは。これは、どういうことなんだ。
許してもらえたのか?
それとも、惨めなバイトの無駄なあがきを上から目線で嘲笑っているのか……?

「えっ……と、あの……?」
「うん、まあ、せっかく来てくれて悪いけど、今日のシフトは別の子に頼んであるから」

相変わらずのトーンで放たれた言葉が胸に深く突き刺さった。
許してもらえるとは思ってなかったけど、これは、思ったよりしんどい。

「その代わり、ちょっと今から時間あるか?」
「……今から、ですか?」
「せっかく来たんだから仕込みの手伝いしてくれや」

どっこらせ、と腰を上げて店の奥に引っ込もうとするのを慌てて追いかけた。

「ちょ、ちょっと……待ってください」
「ん、なんか用事あったか?」
「いや、そうじゃなくて……その、俺って結局クビなんですよね?」
「なんで?」
「え?なんでって……」

いまいち事態が飲み込めず戸惑っていると、節くれだった大きな手でワシャワシャと頭を撫でられた。

「お前はさ、俺の若いときによく似てんだよ」

目が合っているのにどこか遠くを見ているような眼差しは、今まで見たことのないものだった。

「俺は、気づくのにずいぶん長いことかかっちまったからなあ。お前が立ち直んのも、もっと時間かかると思ってたんだが。俺の読みが甘かったなあ」

気が済んだのか、そのままくるりと背を向けて厨房へと入っていく。
言っていることの意味はよくわからないが、どうやら許してはもらえたらしい。
いつも得も言われぬ圧を感じていた店長の広い背中が、なんとなく、少しだけ小さく見えた気がした。

「人生一度きりだ。バカやるのも真面目にやるのも結構だが、後悔のないようにな」
「――は、はいっ!」

後になって急遽シフトを代わってもらった仲間に礼を言ったときに知った話だが、どうやら店長はあの日の俺の失態を誰にも話していなかったらしい。
なんでも「親戚の葬式で実家に帰ることになった」ことになっていたんだと。
勝手に俺の親戚殺すなとか、大学一緒の連中にはすぐバレるウソつくなとか、思うことはいろいろあったものの「必ず戻ってくる」と信じてもらえていたのがわかって胸が熱くなった。

もし素直になれていなかったら、そのことも知る余地がなかったのだ。
あのとき逃げ出さずにちゃんと謝れて、本当に良かった。

ちなみに、仕込み用の鍋をひっくり返してこっぴどく叱られたのは、また別の話だ。

 

それから数日後。サークル仲間からカラオケの誘いが来た。
ポコポコとグループ LINE に出欠の返信が届くのを見守っていると、ミカからも参加の意思表示があった。
幸い、メリットを痛感したおかげか『素直モード』はまだ健在だ。
この間のことを謝るいい機会だ。何とかスキを見て、二人きりになれるタイミングを探そう。

「中っち、今日もキレッキレだったなー!」
「いよっ!合いの手名人!」

……と、思っていたのだが、結局いつもの調子で盛り上げるのが楽しくて夢中になってしまった。
ときどき横目でミカの様子を確認した感じでは、俺の合いの手やネタ曲にも嫌な顔はせず笑ってくれていたようだけど、場の雰囲気を壊さないために無理をしていたのかもしれない。

今はグループ LINE で間接的につながってるだけだから多少強引かもしれないが、確実に二人きりになるには個チャで呼び出すしかないか。
でもやっぱり、何の断りもなく友だち追加するのマズいかな。もしブロックされたらたぶん泣く。

「ちょっと用事あるからここで~。またね~!」

大勢でダラダラと駅に向かう道すがら、どんな文言で呼び出すのがいいか悶々と考えているうちにミカが一人集団から離れて行った。
よし、今が絶好のチャンスだ。

「……あー、俺さっきの店にスマホ忘れたっぽい。先行っといて!」

少し間を置き、曲がり角でミカの姿が見えなくなったタイミングを見計らってから声を上げた。
そのまま元来た道を戻れば、他のメンバーからはもう見えない。
遠く離れた華奢な背中を小走りに追いかけた。

「……ミカ!」
「えっ、あれ?中村くんどうしたの?」

急に話しかけられて驚いたようだが、拒絶されている感じはしない。
顔をしかめて逃げ出すでもなく、こちらが荒くなった息を整えるのを待ってくれている。

「……こ、この前のこと、謝りたくて」
「この前?――あ、もしかして『当たって砕けろー』のやつ?」
「そ、それ……あのとき、ひどいこと言って、ごめん」
「ううん、気にしないで~。というかむしろ――」
「それと、もういっこあって」

何か言いかけたのを遮って、やっと整った息をもう一度深く吸った。
きょとんと丸く見開いた瞳がキラキラ輝いている。

「俺、ミカのこと好きだ。この間は、その……他に好きな人がいるって聞いて、つい勢いでっていうか……つ、つまり、告白して欲しくなくてあんなことを言いました!すいませんでした!!」

言い切ると同時に、地面にめり込む勢いで頭を下げた。
途中からどんどん恥ずかしさの方が勝ってきてしまって、敬語を織り交ぜなければ言葉を続けられなかった。
我ながら動機が幼稚過ぎる。

「……中村くん、顔上げてよ」

呆れた苦笑いを浮かべているのを想像して恐る恐る顔を上げてみれば、なぜか今まで見たことのない悲しげな顔で俯いていた。

「ごめんね、中村くんがそんなふうに思ってくれてるの、全然気づかなくって。あんな話されたら、ショックだったよね……」
「えっ?あっ、いや。それはまあ、なくはなかったけど」

たしかに辛い思いはしたが、面と向かって言われるとなんだか落ち着かない。
そんなことを言わせるために謝ったんじゃないのに。

「『他に好きな人がいるのを知ってて告白する』って、とても勇気がいることだよね。でも、中村くんがちゃんと話してくれて、嬉しかったよ」
「い、いや。そんな」
「私も先輩に告白したとき『断られたらどうしよう』って気持ちですっごく怖かったから。ちょっと尊敬しちゃうな」
「そ、そうか。告白……えっ待って、もう告白したの?」
「うん!それでね、OK もらえてお付き合いすることになった!」

ナ、ナンダッテー!?
あれからまだ 1 週間も経ってないのに、展開早くないか!?

「今までいろんな人に相談したんだけど、『絶対うまくいくよ』って言ってくれる子ばっかりで、逆に自信なかったの。私と先輩が釣り合うはずないって思ってたから。でも中村くんにああ言われて、自分でも不思議だけど決心がついたんだ。『ダメかもしれなくても、ちゃんと告白しとかないときっと後悔する』って。だから、中村くんにお礼言いたかったの。ありがとね」
「……ど、どういたしまして?」
「中村くんの次の恋、応援するから!気になる人できたらいつでも相談に乗るね!」

清々しい笑顔とサムズアップでこう答えられては、もうきっぱり諦めるしかない。
俺の恋は、今たしかに終わったのだ。

「……ア、アリガトウゴザイマス!」

あえなく玉砕することになったが、素直になったおかげで『乙女心』をよく知る頼もしい相談相手を得た、らしい。

 

最終的にはお互いに笑顔で別れ、一人になった帰り道。
ふいにこみ上げてきた何かで胸がいっぱいになって、少し泣いた。

 

翌朝。はしゃぎながら登校する小学生たちの声で目が覚めた。
今日の講義は午後からなのに、こういう日に限ってスッキリ起きられたりするから不思議だ。
いつもの寝起きより腫れぼったく感じる瞼をこすりながら、おもむろにテレビをつける。
同じようなマークが並ぶ天気予報をぼけっと眺めながら、ここ数日のことに思いを巡らした。

「素直になる」ってめちゃくちゃ疲れるし、まあまあ恥ずかしい思いもした。
でも、店長もミカも、素直になった俺のこと、笑ったりバカにしたりしなかった。
それに、がんばって素直になっておくと、その一瞬はしんどくても後は不思議と心が軽くなるようだ。

この感覚は、うまく言葉にできないけど。
たぶん『気持ちいい』が近いのかな。
素直になるって、思ったより気持ちいい。かも。

 

目覚まし代わりに枕元に置いていたスマホから、バイブ音が聞こえてきた。
早起きできたと思ったのにもうそんな時間か、と手に取って見れば、母さんからの着信だった。
自分が母の日のプレゼントを贈ったのをそのときようやく思い出し、胸の鼓動が少し早くなる。
短い間にいろいろあったせいで、もう何週間も前のことのような感覚だ。
あのタンブラー、ちゃんと喜んでもらえたかな。

「……もしも――」
『もしもし!今さっき届いたよ!とってもかわいくて素敵ね!ありがとうー!』

食い気味に明るい声が聞こえてきて、思わず顔が緩んだ。
遠くから聞こえるりょうたろうの吠え声も、心なしか母さんと一緒に喜んでいるように思える。

『自分の名前が入ってるプレゼントなんて、お母さん初めてで感動しちゃった!サイズもちょうどいいし、今日からさっそく使わせてもらうわね!ありがとう!』

何度も繰り返される素直な『ありがとう』の言葉に、嬉しさに混じって少しだけ後ろめたい気持ちが沸いてくる。

こんなに喜んでもらえるなら、ちゃんと毎年贈っていればよかった。
『ありがとう』って言ってもらえるのがこんなに嬉しいなら、もっともっと言っておけばよかった。

でも、今はちゃんと気づけたから。
素直になるのは怖くないって、教えてもらえたから。
これまでは恥ずかしくて絶対口では言えないと思っていたけど、今なら言える。

「――あのさ、母さん」
『うん?なあに?』
「いつもありがとう。毎月仕送りしてくれてるおかず、すごく助かってるよ」
『……ええー?もうーなにー?そういうのお母さん弱いんだから』

笑いながらだんだん涙声になっていくのにつられて、少し目頭が熱くなった。

 

あのときの母さんの嬉しそうな声は、たぶん一生忘れない。
店長の手のぬくもりも、ミカの笑顔も。
あのとき、素直になった俺の気持ちを優しく受け止めてくれた人たちのおかげで、今があるんだ。

 


 

「すまんけど、俺とりあえず帰るわ!また今度ゆっくり飲むとして、お前はちゃんと飯食えよ!」

あの後店長に提示された『お代無料+クリーニング代』の提案はありがたく受け入れたが、残念ながら下着の替えが置いてありそうな店が近くになかったので、後輩にはいくらかの現金を握らせて帰ることにした。
電車に乗る勇気はなかったが、幸い尻は無事だったのでタクシーを使った。
『飲み屋の前で股間を濡らしている客』に当然最初は嫌な顔をされたが、事の顛末を面白おかしく話すうちに車内は和やかな笑いに包まれていく。
良ければどうぞ、と降り際に手渡された飴玉は、昔懐かしいコーラ味だ。
口の中で転がせば、見た目の悲惨さと裏腹に気持ちは軽やかになった。

 

帰宅してすぐ風呂場へ直行し、さっぱりした気分で冷蔵庫を漁る。
結局ほとんど何も食べられなかったから、腹が減って仕方がない。
先週届いたばかりの手作りハンバーグを冷凍室から取り出し、パックの米と一緒にレンジへ押し込んだ。
温めている間に少しだけ湯を沸かし、これまた仕送りで届いたインスタントのスープに注ぐ。

就職してからはそれなりの給料をもらっているし、こちらからも実家に少なからずお金を入れるようにしているのだが、いくつになっても「ちゃんと食べているか」の心配は尽きないらしく、毎月の食料の仕送りは今も続いている。
もういい年した大人なんだからと何度か断ったのだが、実際こういうときは心底助かるのが事実だ。

「――いただきます」

母さんに見られたら「野菜が足りない!」と小言を言われそうなメニューだが、料理が一切できない一人暮らし男の食卓としては十分すぎるくらいだろう。
ハンバーグを口いっぱいに頬張りながら、あのバイト君今ごろどうしてっかなあ、と思い巡らした。
自分で言うのも何だが、相手が俺じゃなかったら大変なことになってたぞ。

烈火のごとく怒鳴り散らすマダムたちの形相を再び思い出し、背筋が冷えた。
社会人として接客するようになった今では、あの状況のヤバさがより鮮明に感じられる。
今の会社で同じようなことになったら……と考えるだけでおそろしい。
本当に、あの状況でよくクビにならずに済んだもんだ。店長の器のデカさよ。

「――ん?待てよ、あの人どっかで……」

目を吊り上げて怒るマダムの顔になんとなく見覚えがある気がして、いったん箸を止め記憶をたどった。

あのときは全然気づかなかったけど、もしかして知り合いだったか?まさか。
投資用の不動産を多く扱っているうちの会社としては客層的に似たような人が多いから、そんな気がしただけかな。
……客?

「――あッ!?まさか今日の!?」

新規のお客様として応対した老夫婦。
知人の紹介でうちを知ったらしく、終始和やかな雰囲気だったのが印象的だった。
そのときに夫人から言われた「まだお若いけれど、受け答えがしっかりしていて安心できるわね」という褒め言葉が心底嬉しくて。
就職してから自分なりに努力はしたが、面と向かって言葉遣いを褒められたのは初めてだったから、そのひと言で天にも昇る心地になったものだ。

5 年前はほとんど怒っている顔しか見ていなかったからすぐに分からなかったけど、間違いない。
俺がウーロン茶をぶちまけた、あの人だ。

ニコニコと微笑む顔と 5 年前の怒り狂った顔のギャップに、開いた口が塞がらない。
いや、それだけのことをしたのだから仕方ないんだけど。
『笑顔がかわいくて優しそうなおばちゃん』のイメージが崩れてしまったのは少しだけショックだった。

今度会ったとき、タネ明かししたらどんな顔するかな。
……いや、うん、やめとこう。これでうまくいくのはたぶん漫画だけだ。
せっかくの上客を逃したくはない。

『一番嬉しいのは、あなたからの”ありがとう”』

耳覚えのあるフレーズが今年も聞こえてきた。
あれから設定のマイナーチェンジはあったものの、最後のナレーションは今も変わらない。

さて、今度の母の日は何を贈ろうか。
最近手動のコーヒーミル買ったって言ってたし、今年は豆でも贈ろうかな。
5 年前に贈ったタンブラーは、今も変わらず愛用してくれている。
新しいミルでウキウキと豆を挽き、あのタンブラーで堪能する姿を想像して笑みがこぼれた。

よし、そうと決まれば週末は豆探しだ。この前テレビでやってたコーヒーショップも見てみよう。
あとは……ついでにアイツのおやつも買ってやるか。ついでにな。

「――ごちそうさまでした!」

 

思い出して、春

「……んー。いい香り」

開封したばかりのコーヒー豆の香りと一緒に、温かい気持ちで胸が満たされた。
最近ようやく好みの粗さに挽けるようになってきたコーヒーミルに投入し、ゆっくりとレバーを回していく。
ゴリゴリと手に伝わってくる感触が心地いい。
細かく砕かれてさらに増す香りをずっと嗅いでいたい気持ちと、早く挽き終わってコーヒーを飲みたい気持ちのささやかな葛藤も楽しみのうちだ。

電気ケトルのお湯が適温になるのを待ちながら、ドリッパーの準備。
きれいにこぼさず粉を移せた日は、なんとなくいい日になる気がする。
……うん、いい感じ。

お湯を注がれてモコモコと膨らんだ粉と、壁時計の秒針の間でソワソワと視線を泳がせる。
一日で一番長く感じる 30 秒だ。
さて、ここまで来たらあとちょっと。
ゆっくりゆっくり、丁寧に……。

手間ひまかけて淹れたコーヒーをお花のタンブラーに注いで、幸せ 120%の一杯できあがり。

「はあ~、おいしいわ~。お店開けちゃいそうね」

自分で言った冗談に気を良くして、架空の店の内装や立地の妄想があれこれと膨らんでいく。

お店の名前はどうしようかしら。
表にはおしゃれな手描きの看板を飾って。
こじんまりやるなら、あえてコーヒー一本で勝負するのもいいわね。

ひと通り満足のいく未来予想図ができるころには、コーヒーも空になっていた。
あっという間に過ぎてしまった至福の時の名残を惜しみながら、ほんのり温かくなったタンブラーを手の中で転がす。
刻まれた『Special Thanks』の文字が、5 年前のことを昨日のことのように思い出させてくれた。

電話の向こうで鼻をすする音に、何かあったなと察しはついていた。
そして、何日かして突然贈られてきたプレゼント。
それだけでも十分気持ちは伝わったけれど、やっぱり一番嬉しかったのは直接『ありがとう』の言葉をくれたことだった。
年甲斐もなくはしゃいでしまって、単身赴任中の夫に電話で長々と自慢したりもした。

あの子なりに何か思うことがあったのか、あの時を境に母の日と誕生日には欠かさずプレゼントをくれるようになった。
「こういうの好きだろ!」と、顔を真赤にしながら花束を抱えて帰ってきた年もあった。
どんな年のどんなプレゼントも、全部大切な思い出。
消えないメッセージが刻まれたこのタンブラーは、そのひとつひとつを鮮明に思い出させてくれる。

いつまでも子どもだと思っていたのに、ちょっと目を離したうちに、ぐんと大人になってしまって。
素直に『ありがとう』と言ってくれるのはとても嬉しいけれど、もうあの頃の――お友だちと肩を並べたくて背伸びをしてみたり、通信簿に『授業中でも大変元気がよく活発』と書かれてしまったり、立派に反抗期を満喫したりしていた――あのかわいい息子が、とうとう”大人”になってしまったのだ、と思うと少し寂しい。
ああ、私も早く子離れしないとな。

「キャン!キャン!」
「あらら、ママばっかりごめんね。りょーちゃんもおやつしようね~」

物欲しげに見上げてくる瞳に、たまらず腰を上げる。
亮太に見られたら「甘やかしすぎ!」と小言を言われそうだけれど、私ばっかりいい思いするわけにいかないものね。
ちょっとだけよ、ちょっとだけ。
コーヒー豆と一緒に受け取った犬用クッキーをいそいそと手に取れば、りょうたろうが興奮してクルクル回りだした。
カラカラとお皿に入れる間にも、早く早く、と言わんばかりに膝に手を置いてくる。

「りょーちゃん、おすわり!待て!……よし、いい子ね」

初めての匂いをしっかり嗅いで確かめてから、ガツガツと勢いよく食べ始めた。
この前買ったジャーキーは不評だったけれど、今回のは気に入ってくれたみたい。
さすがは”お兄ちゃんセレクト”だわ。
りょうたろうを愛おしそうに撫で回していた息子の姿が瞼に浮かんで、思わずフフッと声が漏れた。

自分の名前と被っているのが気になるのか、亮太はこの子のことを『たろ』と呼ぶ。
長らくひとりっ子だったのもあって、年の離れた”弟”がかわいくて仕方ないらしい。
就職したてだった去年は慣れない環境でいろいろと大変そうだったけれど、仕事の方もだいぶ板についてきたようで、最近はまたときどき帰ってきては可愛がってくれている。

りょうたろうを迎えてから早 5 年。
もともと成犬だったのもあり、もうお世辞にも若いとは言えない歳になってきた。
クッキーのパッケージに大きく書かれた『国産無添加』『パピーからシニアまで』の文字を眺めながら、この幸せな時間があとどれだけ続くだろう、とついつい考えてしまう。
会うたびに少しずつ動きが緩慢になっているのを感じるのか、健康面では亮太の方が私よりよっぽど気を使ってくれている節がある。

――素直な気持ちを言葉にするのが苦手な子だったけれど、昔からお父さんに似て根は優しい子なのよね。

ふと思い立ち、食器棚にしまってあったマグカップをそろりと取り出す。
欠けた縁を軽く指で撫ぜながら、5 年前よりもさらに昔へと思いを馳せた。

 

『おかーさん、これあげる!』

小さな手に握られた、かわいい花柄のマグカップ。
まだ小学校に入ってすぐの頃、亮太が自分のお小遣いで買ってくれた初めてのプレゼントだ。

些細なことでクヨクヨしないのが取り柄の私だが、お気に入りだったマグカップをうっかり割ってしまい家事をするのもままならないほど落ち込んだ日があった。
そんな私を見かねて、夫と一緒に代わりのマグカップを買いに行ってくれたのだ。

お友だちが持っているマンガが欲しい、とねだられたのをきっかけに始めたお小遣い制度。
「お金には限りがあるから、よく考えて使うのよ」と言い含めながらスタートして、最初に買ってくれたものが私へのマグカップだった。
他に欲しいものがたくさんあっただろうに、それでも『おかあさんが元気でいること』がこの子にとってそれだけ大事だったのだと痛感させられたものだ。

亮太はもう覚えていないかもしれないけれど、私にとっては一生忘れられない大切な思い出。
タンブラーをプレゼントしてもらってからすっかり出番はなくなったが、今も捨てられずにこうして大事に取ってある。
このマグカップとタンブラーが並んでいるのを見ているだけで、幸せな気持ちが沸いてくるから。

 

げぷっ、と満足げな音が聞こえてきて振り返れば、お皿の中は粉も残さずきれいになっていた。

「お兄ちゃんが買ってくれたおやつ、美味しかったねー」

口の周りを舐め回す顔が、にっこり満面の笑みを浮かべているように見えた。

END.







著者:笹川愛奈
イラスト:坂上知美
朗読:伊藤由紀
校正、校閲:種村拓己、高橋知世
タイトル、サブタイトル:笹川愛奈、高橋知世




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