【誕生日小説】たくさん笑う君が好き

誕生日小説「たくさん笑う君が好き」

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最初に目についたのは、不自然なほど真っ黒な髪だった。
生まれつきのものではないのがひと目で分かる、人工的な黒。
色素の薄い肌や眉に全く馴染んでいないのが、痛々しくさえ見えた。

【オーディオブック】

人形

今日から高校二年生。残念なことに、うちは毎年クラス替えがある。
同じ部活の仲間とはしゃいだり、新しい顔ぶれとぎこちなく話をするクラスメイトたちをどこか遠くに見ながら、小さくため息をついた。

まるで狙ったかのように、このクラスには一人も『友だち』がいない。
去年同じクラスだったとか、中学が同じだったとか、そういう意味での知り合いは何人かいる。
でも、こういうとき「一緒のクラスで良かったね」と言い合える子が、誰もいないのだ。
また一から面倒な『友だちづくり』をしなきゃいけないなんて、考えるだけで頭が痛い。

去年は出だしでしくじったから、今度こそうまくやらなきゃ。
そんなプレッシャーのせいで余計に憂鬱になる。
自己紹介タイムで何をしゃべるかは昨日の夜から考えてあるけど、どうも自信が持てない。

無意識に机の下で両手をすり合わせながら時計を見上げると、ホームルームが始まるまであと五分になっていた。
胸の鼓動がかすかに早くなる。
もうそろそろ新しい担任がやってくるはずだ。

――若い女の先生がいいなぁ。

せめてそれなら、というかすかな希望は、ある意味誰よりも見慣れた顔が教室に入ってきたのを見て無残にも砕け散った。
よりによって、苦手な数学の教科担任だ。
別に本人が嫌いなわけじゃないけど、あの顔を見てるだけで再々試まで受けさせられたときのことを思い出して辛い。
あーもうやだ。もうすでに帰りたい。ああー。

「はい、席についてー。ちょっと早いけど、大事なお知らせがあるので早めに始めます」

教卓の前に立つなり放たれた言葉に、ガヤガヤと騒がしかったクラスメイトたちも口をつぐんだ。
急に静かになった空間で、目を見合わせながらぞろぞろと動き出す。
学期始めの席は名簿順と決まっているので、うろおぼえながらも全員無事に新しい『自分の席』を探し当てたようだ。

それにしても、新学期初日の『大事なお知らせ』ってなんだろう?

「――はい、全員揃ってるね。このクラスの担任になった数学の菊池です。よろしくお願いします。えー、じゃあさっそくですが」

先生が教室のドアに目を向けたのに釣られて視線を動かすと、廊下側の前から二番目の席だけ空いているのに気づいた。

「どうぞ、入ってきて」

促されて入ってきたのは、細身の女子生徒。
『人形みたい』とは、きっとこういうときに使う表現なのだろう。
緊張しているのか表情は硬いが、雑誌モデルのように整った顔に男子たちからは早くも小さな歓声が上がっている。
色素の薄い肌と瞳から、日本人以外の血を引いていることはなんとなく察しがついた。
その一方で、肩の下まで伸びた髪は不自然なほど濃い黒に染められている。

安藤あんどうミカです。父の仕事の都合で、今日から転入することになりました。よろしくお願いします」

見た目通りの、少し高くて可愛らしい声。
どもりもせず訛りもせず、思いのほか流暢だった自己紹介に驚きながら、ペコリと下げられた頭の黒さにモヤモヤした気持ちがわいてくる。

――ほんと、余計なことしてくれるよ。あの子のは絶対地毛でしょーが。

生活指導の山田先生 山ゴリの顔がよぎって、思わず顔をしかめた。

――絶対アイツのせいだ。せっかく可愛い顔してるのに、あんな変な頭にされてかわいそうに。

入学直後のすったもんだを思い出して、苦い気持ちが胸に広がった。
『高校デビュー』に胸踊らせていた当時、ほんのちょっとした出来心で、校則で禁止されているメイクをしていたの見つかってしまったのだ。

『入学直後に生活指導される生徒』に、いい印象を持つ人間は少ない。
人目があるところで長々説教されたせいで、同級生には遠巻きにされるし、先輩女子には目をつけられそうになるしで、本当に散々な目にあった。
あれ以来さすがに懲りて学校では大人しくしているが――日焼け止めと称して化粧下地だけ塗っているのは内緒だ――すっかり『不良少女』のイメージが定着してしまって、最初の友だちができるまで辛い思いをしたものだ。

そう。アタシが『友だちづくり』に苦労したのは、他でもないあの一件のせいだ。
状況は少し違うが、ただでさえ緊張する転入初日を不自然な髪色で迎えることになってさぞ辛いだろう。
これだからオトメゴコロの分からない男って嫌いだよ。

「はい、じゃあそこの空いてる席に座ってもらって。……えー、高校二年生というと、人生で一番楽しい時期なんて言う人もいますし、やりたいことはたくさんあると思いますが、あまりハメを外しすぎないように――」

席が後ろの方なのもあって、クラス中がチラチラと彼女に視線を寄越しているのが見て取れた。
そんな状況に気づいているのかいないのか、当の本人は誰よりも真剣な顔で――もしかしたら、まだ緊張しているのかもしれない――何も面白くない先生の話に耳を傾けているようだった。

痛々しいほど黒い髪を見ているうちに、まだ会話すらしたことのない彼女への勝手な親近感が高まっていく。
あの子となら、友だちになれるかもしれない。

――あとで、周りに人がいないときを見計らって、話しかけてみようかな。

「……じゃ、ちょうど時間なのでこのまま授業始めます。ちゃんと『数Ⅱ』の教科書持ってきたかー?」

冗談めかして言われた言葉に、カバンに突っ込んだ手が止まる。
パラパラと笑い声が上がる教室の中、運良く隣の席だった数少ない『知り合い』に勇気を振り絞って声をかけた。

「……こ、近藤くん。ごめん……教科書見して……」

あれから早一週間。
初日に教科書を忘れた以外は、去年と大して変わりない日々を過ごしていた。
そう、あれから何も起きていない。友だちもできていない。
正確には、事を起こす勇気が結局湧かなかったのだ。

初日は『周りに人がいないタイミング』などまったく無くて。
男女問わず常に誰かに囲まれている状況が放課後まで続き、早々に諦めたアタシはそそくさと帰ってしまった。
三日も経つころにはそんな状況も落ち着いたが、ここまで時間が経ってしまうと『周りに誰もいないタイミング』というのは逆に話しかけづらい。

――他のクラスメイトたちはきっとみんな自己紹介とかしただろうに、ひとりだけ今日までシカトしてたと思われるかも。

そんなことを考えるうちに、話しかける勇気はいつの間にか風に吹かれるチリのように消えてしまっていた。
そんなこんなで出鼻をくじかれた結果、他のクラスメイトに話しかけるタイミングまでも失ったというわけだ。
で、『友だちづくり』を早々に諦めた後どうなったかというと、あのきれいな顔を授業中こっそり『鑑賞』するのが密かな楽しみになっていた。

アタシの席は中央列の廊下側、後ろから二番目。
彼女の席との間にはもう一列あるから、本当なら顔なんて見えるはずがない。
ところが運のいいことに、アタシと彼女のちょうど直線上に座る男子は、授業中ほぼ必ず机に突っ伏して寝ているのだ。

彼は野球部のエースで、聞いた話ではプロを目指せるレベルらしい。
もともと進学希望でないことを知っているからか、記念すべき『当校出身初のプロ野球選手』に期待しているのか、どの教科の先生も堂々と居眠りする彼をわざわざ注意することはなかった――大きなイビキをかき出したときはさすがに怒られていたけど。

そんなわけで、障害物がない快適な環境で、板書を写すフリをしながらチラチラと彼女の顔を盗み見る日々を送っている。
似合っていない黒髪も、ほとんど表情が変わらないポーカーフェイスも、しばらく見ているうちにすっかり慣れてしまった。
あのきれいな顔は、一体どんなふうに笑うのだろう。

……そう、彼女に話しかけないことにしたのは、もうひとつ理由がある。
あれだけの人だかりができていたのがウソのように、彼女はどの『仲良しグループ』にも所属していないようなのだ。
転入してきたあの日からこの方、彼女が誰かと親しげに話したり笑ったりしているのを見たことがない。
別にイジメられてはいないようだけど、あれだけの美人なのに女子はおろか男子たちも距離を置いているということは、きっと何か問題があるに違いない。

……と、話しかける勇気を無くしたことを正当化できる理由を見つけたのもあって、彼女のことは『観賞用クラスメイト』として遠くから眺めることにしたわけだ。

「――でーあるからして、この公式にさっき求めた値を当てはめるとxの解は――」

真剣に聞いていても何を言っているかさっぱりわからない数学の授業は、絶好の『鑑賞タイム』だ。
板書を写すまじめな横顔をぼけっと眺めながら、彼女の私生活に思いを巡らせた。
着せかえ人形よろしく、脳内でいろんなブランドの服を着せてみる。
身長の割に座高が低いから、顔だけじゃなくスタイルも抜群なのがわかって妄想がはかどった。

――ガーリー系も似合うだろうけど、シックなワントーンコーデとかも良さそう。地毛って何色なのかな。休みの日はどんなメイクしてるんだろ。イエベかブルベで言ったら……

ぽやぽやと空想にふけっていたところに「じゃあ今日はここまで」という声と終鈴がほぼ同時に聞こえてきて我に返った。
今日もノートはほとんど空白のまま。
せめて残った板書だけでも書き写そうと顔を上げると、仕事の早い日直がすでに消し始めていた。
今年は赤点を取らないようにがんばろうと思っていたのに、このままじゃまた再々試だ。

内心焦りつつ、なんでもない顔を繕ったまま、白いページを隠すようにサッとノートを閉じる。
ふと彼女の方に目をやると、両手を前に組んで伸びをしているところだった。
『人間らしさ』を感じる珍しい仕草に、忘れかけていた親近感が淡くよみがえる。

結局『友だち』にはなれずじまいだけど、いつか私服センスの答え合わせができる日が来るだろうか。
……友だちでもないのに、一緒に遊びに行くことなんてそうないだろうけど。

◇◇

高校では珍しい『転入生』としての新鮮さも薄れ、良くも悪くも存在感が消えつつあった彼女に転機が訪れたのは、衣替えが終わったばかりの六月のある日のことだった。

いつものように朝教室に入ると、なんとなく、クラスの雰囲気がおかしい。
男子はそれほど変わりなく見えるが、いつもキャピキャピと楽しげに話している女子たちがやけに静かなのだ。
自分の席からこっそり様子をうかがっていると、どうやら誰かのウワサ話をしているらしい。
ヒソヒソを耳打ちし合うのを眺めていると、時おり視線を寄越しているのが『彼女』の方であるのがわかった。

――あーあ、ヤな感じ。

あのときの心境を思い出して、胃が少し痛くなった。
去年は自分がウワサされる側だったけど、第三者の立場でも居心地悪いのは変わらない。
とはいえ、喉元過ぎれば熱さ忘れるというか、当事者でないとやっぱり野次馬根性が湧いてきてしまうものだ。
わざわざ何があったのかと聞きに行く勇気は当然ないので、興味の無いフリをしながら小さな声に耳を尖らせる。

昼休みまでそんなことを続け、拾い上げたワードをつなぎ合わせてみると『先輩の彼氏を誘惑して奪おうとした』ということらしかった。
始めのうちは「そんなドラマみたいな話があるか」と声に出して言いたくなるくらい、ツッコミどころ満載の話だと思った。
こんな悪趣味なウワサ、流している方も信じている方もどうかしていると。
それなのに、時間が経つにつれなぜだかすんなりと腑に落ちてしまっていた。
よくよく考えてみれば、ドラマやマンガでなくても『見た目は大人しそうな人間が思ってもないことをやらかす』という事件は決して珍しくない。

――まあ、たしかに顔は可愛いから、その気になればどんな男もコロッといっちゃいそうだよね。ちょっと……いや、かなり意外だけど。

そんなことを午後から延々と考えていたせいで、家までの道のりを半分ほど来てから忘れ物に気がついた。
日差しが強くなってきたこの時期は名実ともに手放せない、日焼け止め代わりの化粧下地が入ったポーチ。
しばらく迷った末、小さくため息をついて来た道を戻ることにした。
朝だけ我慢すれば……とも思ったけど、きっと目ざとい女子たちにはいつもの顔が『すっぴん』でないことに気づかれてしまうだろう。
ただでさえ面倒な雰囲気の今、種火がくすぶっているところに油をかぶって飛び込んでいくような真似はしたくない。
毎朝登校してくるときよりも幾分か素早い動きで内履きに履き替え、人気のない廊下をひとり歩く。
運動部のかけ声や吹奏楽部の奏でる音を遠くに聞きながら、今日一日、普段と変わらない様子に見えた彼女の横顔が思い浮かんだ。

誰もいないのをいいことに、いつもはやらない一段飛ばしをしながら一気に階段を駆け上がる。
膝に手をついて息を整えているうちに、胸のモヤモヤが少しだけ薄れた気がした。

教室について目当てのものを無事回収してから、ふと思い立って別のルートで下りることにした。
アタシの数少ない友だちのうち、一番の仲良しはバレー部のメンバーだ。

――練習しているとこをちょっとだけ眺めて帰ろう。

そう思って、体育館に通じる方の廊下を進んでいく。
ちょうど日陰になって薄暗い階段を下りていくと、階下から険悪な雰囲気の話し声が聞こえてきた。

「――いつまで黙ってんの?」
「いい加減認めなよ」
「素直に謝れば許してやるっつってんのにさあ」

気取られぬように抜き足差し足でそろそろと下りていくと、踊り場のところで数人の女子が誰かを取り囲んでいるようだった。
あの頭は……まじめに染め直しているようで、いわゆる『逆プリン』になっているのを見たことがない、あの真っ黒い頭は。

「……だから、私は何もしてません」
「まだ言う!?」
「ほんっと素直じゃないね!」
「ちょっと話をしただけです。それに、話しかけてきたのは向こうで――」
「じゃあなんでその後すぐ『別れよう』なんて言い出したんだよ!」
「エミとユウヤは付き合いたてホヤホヤの仲良しカップルだったんだよ!?」
「私は関係ないです」
「こんのっ……!」

今にも殴りかかりそうな不穏な雰囲気に、思わずつばを飲む。
ゴクッ、と鳴った喉の音が聞こえたかのように、その瞬間ふと顔を上げた彼女と目が合ってしまった。

「――ッ!」

跳ね上がった心臓につられるように、勢いよく階段を駆け上がった。
そのまま教室の前を通って、さっき上って来た方の階段を踏み外しかけながら急いで下りていく。

彼女は、自分は何もしていないとはっきり言った。
きっとそれが真実なのだろう。
でもアタシには、何もできない。あの状況で助けに入る勇気はアタシにはない。
もし下手に味方したら、アタシまで変なウワサを立てられるかも。

自分の不甲斐なさと、もうこれ以上学校で孤立したくないという恐怖心から逃げるように無我夢中で足を動かす。
校門を出て、学校が見えなくなるところまで走ってからようやく立ち止まった。

ドクドクと波打つ心臓を早く落ち着けたい一心で、汗で湿ったブラウスをギュッと握りしめる。
この汗と乱れた息が、体を動かしたせいなのか、緊張と恐怖によるものなのか、それすらもよく分からない。

家に帰るまでの間に汗と息は収まったが、何度深呼吸しても、胸の奥のモヤモヤが晴れることはなかった。

仮面の下

翌朝教室に入ると、いつもと変わらない様子の彼女がいた。
席につきながら、きれいな顔にアザや傷ができていないことにほっと胸を撫でおろす。
あの後暴力沙汰になっていたらどうしよう、と思うあまり昨夜はあまり眠れなかったのだが、ケガもなく無事みたいだ――少なくとも、目に見える部分は。

――あの状況から、どうやって逃げ出したんだろう。……というか、本当に無事?殴られる代わりに、お金や物を取られたりしてない?

もし自分が同じ立場だったら、助けずに逃げ出したクラスメイトを恨んだかもしれない。
その日は一日中、いつものように無意識に横顔を眺めては、ふとした拍子にこちらを振り向く予感がして慌てて目をそらすという奇行を繰り返した。

ところが、こちらの心配をよそに、彼女は一向にこちらを気にしている気配がない。
あのとき、ギリギリのところからのぞき見ていたから、もしかしたら彼女には相手がアタシだとは気づかれていなかったのかも。

そう思い至って、ようやく少し肩の力が抜けた。
それでも、昨日から居座り続ける胸のモヤモヤは一向に消えてくれない。
バレていてもいなくても、アタシが彼女を見捨てたという事実に変わりないのだから。
これまではただ積極的に関わっていないだけだったはずのクラスメイトたちが、あからさまに彼女を避けている雰囲気に余計気分が沈んだ。

……けれど。
自分事ではないからか、もともと彼女が誰とも群れないタチだったからか。
胸の奥に巣食っていた罪悪感に似た居心地の悪さは、二週間も過ぎる頃にはすっかり鳴りを潜めてしまった。

こうして、いつの間にか『見かけによらずヤバいことをしでかす転校生』のことは、それこそ服を着たマネキンのように、そこに誰もいないかのように扱うのが、クラス全員の『日常』になっていった。
そして彼女は、どれだけ孤立していても、横顔はいつも変わらず無表情で、きれいに整ったままだった。

◇◇

「……おし、完っ璧」

姿見の前でひとり呟いて、意気揚々と部屋を出る。
今日は土曜日。お気に入りブランドの新作コスメを買いに行くのだ。
本当は発売日当日に買いたかったけど、お金がちょっと足りなくて。
学校帰りの買い食いや他の欲しい物を我慢して、少ないお小遣いを地道に貯めたのはこの日のためだ――再々試はさすがにマズかったようで、あれ以来バイトは親に禁止されてしまっている。

昨日は早めに寝たおかげか化粧乗りもいいし、いつになくアイラインがきれいに引けた。
肌色よし、まつ毛よし、チークの発色もよし。
春に奮発して買ったワンピも大当たりだった。
甘すぎなくて、でもちゃんとかわいい。
値段相応の『大人のオンナ』感ただよう自分の姿に、自然と口角が上がる。
おかげでコスメを買うのはちょっと遅くなったけど、それに見合うだけのいい買い物だった。
これはヘビロテ確定だ。

途中で洗面所に寄り道して、メイクの仕上がりを改めて入念にチェックする。
平日よりも格段に盛れた顔を見ていると、学校にいるときとは別人のように、体の芯から自信があふれてくるのだ。
この感覚を一度知ってしまったら、もうすっぴんのまま外に出るのは恥ずかしくてしょうがない。
最後にニッと口角を上げて、お昼に食べたお好み焼きの青のりが付いていないのをしっかり確認してから玄関に向かう。

今日はたくさん歩くから、ヒールの低いやつで。
いかにも夏らしいストラップサンダルを合わせれば、サイキョーにかわいいアタシの完成だ。

「出かけるの?晩ごはんは?」
「家で食べるー」
「そ。遅くなりすぎないようにね」
「はいはーい。いってきます」

リビングから顔をのぞかせたお母さんに声だけで返事をして、ドアを開ける。

いつもと変わりない、よくある休日の昼下がり。
けれど、なぜかその瞬間、色あせかけていた記憶がふと頭をかすめた。

桜織さおりって、ママが美人の割に顔フツーだよね』

中学の頃、よく遊んでいたクラスメイトに、ある日唐突にそう言われたことがある。
これは普段からすっぴんを見慣れている娘としての率直な意見だが、アタシのお母さんは決して『美人』ではないし、アタシとお母さんが似ていないなんてことも全くない。
それどころかむしろ、母方のじーちゃんばーちゃんには会うたびに「まるで生き写しだ」と言われるくらい、顔も中身もそっくりに生まれついた。

ただ、お母さんはメイクの腕前がプロ並にいいだけなのだ。というか、実際プロだ。
今はいろいろあって普通の会社で働いているが、若い頃はちょっとした芸能事務所でメイクさんをやっていたらしい。

まだ小さかった頃、保育園に行く前の身支度で、顔がみるみる変わっていくのを興味津々見ていたのをよく覚えている。
いろんな種類のブラシを巧みに使いこなして別人のように変身する様は、まるで杖を振ってかぼちゃを馬車に変える魔法使いのようだった。

そしてアタシは、その『魔法使い』そっくりだと言われ続けてきた娘。
鏡に映る自分の顔がどんなにイマイチでも、自分はお母さんと同じ『美人』のうちに入るのだと、なぜかそんな根拠のない自信があった。

でも、そのときのひと言で、目が覚めた。
アタシは……メイクをしてないすっぴんの『小林桜織アタシ』は、美人どころか中の下がいいとこだ――『フツー』と言ってくれたのは、きっとあの子なりの優しさだったんだろう。
ばっちりメイクを決めてるときのお母さんとは、月とすっぽんくらいの違いがある。

そのことに気づいてから、本気でメイクの練習を始めることにした。
前に家族で百均に行ったとき、メイク道具をしげしげ見ていたら「中学生から化粧なんて早すぎるわよ」と言われたから、お母さんには内緒で……と思っていたのに、始めたその日にあっさりバレた。
でも、なぜかお母さんは怒ったり呆れたりしなかった。
しばらく何か考えてから「そうね、私の娘だもんね」なんて言ってたっけ。

それ以来、休日におめかしするときは割とスパルタ気味にあーだこーだとメイクのやり方に口を出してきたり、毎日のスキンケアはあーしろこーしろと口酸っぱく言ってきたりするようになった。
最初は正直ちょっとウザいと思ってたけど、おかげで腕前はメキメキ上達していった。

そうやって少しずつ『魔法』で思い通りに変わっていく自分の顔を見ているうちに「もっとキレイになりたい」という気持ちのまま、ファッションにもどんどん興味が湧くようになった。
お気に入りの服を着て、しっかりメイクをして、別人のようにキレイになって街を歩く。
『魔法使い』にはまだ遠く及ばないけど、同じ年代の女子と比べたら充分いい線いってると思う。

この楽しさは、一度知ってしまうとやめられない。
いや、学生だからってこれをガマンさせられるなんて、本当はおかしな話なのだ。
高校では『休みの日以外やってはいけないこと』と指導される化粧は、社会人になれば途端に『会社に来るときはするのが当然』になり、むしろ『すっぴんはマナー違反』だなんて言われるようになる。
どうせ将来しなきゃいけなくなるなら学生のうちからさせてくれたっていいのに、この手の校則って本当に何のためにあるんだかわからない。
勉強、勉強、勉強って、そればっかり。
学校にメイクの授業があったら、テストで毎回満点を取れる自信があるのにな。
あーあ、早く高校なんか卒業しちゃいたい。

そんなことをあれこれ考えている間に、気づけばにぎやかな駅前通りまで来ていた。
行き交う人たちの多くが、買ったばかりのトキメキが詰まった紙袋をぶら下げている。
暗い気持ちをかき消すように頭を振って、通りがかった店のショーウインドウに映る姿に目をやった。

――大丈夫、大丈夫。今のアタシは、ちゃんと『美人』だよ。

沈んだ心を前向きにする、メイクをしているときだけ使える魔法の呪文。
心の中で静かに唱えれば、自然と背筋が伸びるのだ。

目当ての店まで、歩いてあと十分ほど。
新しい『魔法の杖』を手に入れるため、いざ出陣――

「ねーお姉さん、今ひとり?」
「俺らと一緒に遊びいきません?」
「カラオケいこうよカラオケ!おごるからさ!」

うげっ、と声に出そうになったのをすんでのところで飲み込んだ。
いかにもチャラそうな男二人組。
服や靴はたぶんそれなりに高価なものなんだろうけど、ファッションセンスも清潔感もまるでないせいで台無しだ。

ここ最近、人通りが多いところを歩いているとやたらこの手のヤツに話しかけられるようになった。
ナンパしたくなるほどの美人に仕上がっている自負はあるが、だからといってこういうのにホイホイ付いていくほどバカじゃない。

「……急いでるんで」
「まーまーそう言わずに、お話だけでもー」
「てかそのワンピ、めっちゃ似合ってるね!どこで買ったの?」

このとき、うかつにもちょっと嬉しそうな顔をしてしまったのがいけなかった。
これならイケると思われたのだろう、いつもなら無視する素振りを見せるだけであっさり諦めるのに、そいつらはいつまでも後を付いてきた。

こちらが進もうとする道を塞ぐようにちょこちょこ立ち位置を変えてくるので、仕方なく避けるように方向を変えて歩く。
歩いても歩いてもそいつらはしつこく付いてきて……気づけば、人通りの少ない横道に。
少し先の路肩に停まっているワゴン車に、嫌な予感がしてサッと血の気が引く。
思わず立ち止まって振り返ると、彼らの目の色が、さっきまでと違って見えた。

――ただのナンパじゃない。

逃げなければ、と焦る頭に体がついて行かない。
ためらった一瞬の隙きを突くように、ガッと強引に肩を掴まれる。

「やっと、お話してくれる気になった?」
「……っ!」

たすけて、と叫びたいのに、喉が縮まって声が出ない。
このままじゃ本当にヤバい。
どうしよう、お願い、誰か、誰か――

「Salut ! Il fait beau !」

唐突に聞こえてきた人の声、それも聞き慣れない外国語に、場の雰囲気が変わる。
男たちが振り返った先には、テレビからそのまま抜け出してきたかのような金髪美女が立っていた。

「Frères, les vêtements sont tellement merdiques !」
「……え?いや、えーっと」
「Pourquoi ne changez-vous pas vos vêtements parce que ce n’est pas cool ?」

彼女が何事かを一方的にしゃべり続けている間に、男たちはすっかり気をそがれてしまったようだ。
そうこうしている間に、彼女は男たちと一緒になってぽかんとしていたアタシの手を取って歩きだす。

「Tu devras revenir quand tu auras remédié à ce manque de goût. Au revoir !」

笑顔で手を振りながらさっそうと歩き去る彼女に連れられて、アタシは無事に人目がある大通りに戻ってこられた。

――なに?いまの、ドラマみたいなやつ。

現実味のなさに呆然と突っ立っていると、彼女は何事もなかったかのようにその場を離れて行きそうになる。
せめてお礼だけでも言わなければ、と慌てて声をかけた。

「……っあ、あのっ!さっきはありが――」

振り向く瞬間。いつも見慣れた、『彼女』の横顔と重なる。

「……あ、安藤さん……?」
「えっ!?ウソ!!なんでわかったの??」

それこそドラマのように大げさに目を見開く彼女は、教室にいるときとは別人のようだった。

目当ての店が同じだと言う彼女と一緒に、たくさんの人が行き交う道を並んで歩く。
いつもならあっという間に着く距離を、ゆっくりゆっくり、話しながら歩いた。

「えっと、さ……その髪って……」
「あ、これ?ウィッグ使ってるの」
「あ、だよね……地毛ってそんな感じ?」
「そうそう~。なるべく近い色探したんだ」
「そっか。……その服、かわいいね」
「えへへ、ありがと~。小林さんも、メイク上手だね。ワンピもすごく似合ってる!」
「え……ふへっ、あ、ありがと」

今日の今日まで会話どころか、まともにあいさつもしたことがないのに、ちゃんと名前を覚えてくれていた。
というか、クラスメイトとして認識されていたのがまず驚きだ。
誰にも興味関心がなさそうだと思っていたけど、案外周りをよく見ているのかもしれない。

「最初知らない人かと思っちゃってさ。声かけるか迷ったんだよね~。途中までただのナンパだと思ってたし」
「ああ……うん、アタシも。油断してたわ」
「ああいう変なのに絡まれたね、外国人か頭のおかしい人のフリするといいらしいよ~」
「へ、へぇ……ていうか、さっきの英語じゃないよね。何語?」
「フランス語だよ。ママがフランスの人でね、私ハーフなんだ」
「フランスかー。どうりで全然わかんないわけだ」
「ふだんはママとしゃべるときも日本語だから、あれで合ってるのかもわかんないけどね。雰囲気でなんとかなった!」
「へぇー。で、なんて言ってたの?」
「え~っと……『その服めっちゃダサいから、着替えて出直してこい』的な?」
「マジで!?ウケるー!」
「え~でもさ、思ったでしょ?」
「思った思った!ダサすぎた!」

ふんわりと語尾が間延びする話し方のせいだろうか。
数少ない友だちの誰とも似ていないタイプなのに、話しているとなんだか落ち着く。
というか、肩の力が抜けていく。

本当に、教室にいる『安藤ミカ』とは別人のように、笑顔を浮かべながらよくしゃべる彼女は、『服を着たマネキン』とは真逆の魅力であふれたかわいらしい女の子だった。

目当ての店で買い物を終えた後、すっかり意気投合したアタシたちはモール内の他の店も一緒に見て回った。
お互いに財布の中身はすっからかんになってしまったので、いわゆるウインドウショッピングだ。
高校でできた数少ない友だちはみんな部活に熱心で、土日でも一緒に買い物に行く機会はあまり多くない。
こんなに楽しいと思える休日は、久しぶりだった。

「はぁ~、楽しかった~!」
「アタシも!」

日が傾いて空がオレンジ色を帯びてきた頃、どちらからともなく店を出た。
まだまだ外は明るいが、あんなことがあったばかりだから、やっぱり気にはなる。
さっきの男たちが人混みに紛れていないか、無意識に目を凝らしながら駅までの道を歩いた。

「こんなに楽しく買い物したの久しぶりだー」
「私も~。こんなにしゃべったの久しぶりかも」

聞くなら今かなと、ずっと気になっていたことを切り出してみる。

「あ、あのさ」
「なあに~?」
「安藤さんって、その……どっちが『素』なの?」

ゆっくり、足が止まる。
やっぱり怒ったかな、と恐る恐るのぞき見ると、さっきまで笑顔が弾けていた顔に暗い陰がかかっていた。

「……ん~。どっちなんだろうねえ。自分でもよくわかんないや。……小林さんは、どっちだと思う?」
「えっ、えっと……」
「……な~んてね!ジョーダン!」

言葉に詰まっている間に、ぱっと笑顔が戻る。
なんで、即答できなかったんだろう。答えなんて、もうわかりきってるのに。
きっと、アタシが知りたいことを聞くなら「なんで学校では『素』を出さないの?」と言うべきだった。
スピードを上げてどんどんと先に行こうとするのを思わず呼び止める。

「あああの、あん、ど!みっ、あのっ」
「えっえっ、なに?」
「あ、安藤さんのこと、ミカって呼んでもいい?」
「え……」

『友だち』になるのを夢見ていたとき、どのタイミングで切り出すか妄想していた言葉。
今日、やっと言えた。
きょとんと見開かれた瞳が、太陽の光でキラキラ輝いている。

「……もちろん!好きに呼んでよ」

ふにゃっと照れたように笑う顔に、もう陰は感じられなかった。

「……あのさ。私も、下の名前で呼んでいい?」
「あ、も、もちろん!」
「じゃあ~……桜織だから、さおちゃんね!」
「えっ、ちゃん付け!?」
「だめ?」
「いや、なんていうか……小学校ぶりくらいだから、ちょっとハズいっていうか」

名字だけじゃなく、下の名前まで覚えてくれていた。
しかもあだ名で呼んでくれるなんて、それはもう、『友だち』らしさ満点のやつだ。
嬉しくて、恥ずかしくて、胸がむずむずする。

ゴニョゴニョもごもごと言いよどんでいると、ミカにぽんと肩を叩かれた。
気恥ずかしくて視線をそらしていたから、このときミカがどんな顔をしていたのか、アタシは知らない。

「大丈夫だよ~、そんなに心配しなくても。学校で迷惑はかけないから」
「……え?」
「じゃあ、私改札こっちだから!」
「ちょ、ちょっと」
「また明日、学校でね!さおちゃん!」

――迷惑はかけないって、どういうこと?

聞き直す間もなく、笑顔のままミカは改札を抜けて雑踏の中に消えていった。

氷解

言葉の意味がいまいちわからないまま迎えた月曜日。
いつも憂鬱で仕方ない週明けが、ほんの少しだけ楽しみだった。

「おはよう」って、そのひと言だけでいい。
それさえ言えれば、きっとまたあの笑顔で、肩の力が抜けるあの声で「おはよ~」と返してくれるはず。
そうは思いながら、あの無表情な横顔を思い出すと少し尻込みしてしまう。
だってあまりに別人すぎて、アタシの知ってる『安藤ミカ』と本当に同一人物だったのか、時間が経つほど自信が持てなくなっていくのだ。

――結局、学校で素を出さない理由も聞けないままだったし。声かけても「誰?」みたいな顔されたらどうしよ。本人より陽気でよくしゃべって、ウィッグを使いこなすドッペルゲンガーなんて聞いたことないけど、もしかしたらってこともあるし……

そんなことを考えてソワソワしながら、いつもと変わらない仏頂面を装って教室に入る。
アタシは普段ギリギリまで寝ていたいタイプなので――メイクができないなら、その分の時間寝ていた方がいくらか有意義だ――登校してきた時点でクラスメイトはミカを含めほぼ全員そろっていることが多い。
でも今日は少し家を出るのが早かったからか、教室には空席が目立つ。
ミカもまだ来ていないようだ。
いないことを残念に思う気持ちと、緊張するイベントが先送りになった安堵で、小さく息を吐く。

穏やかな静けさと爽やかな朝日に包まれた教室は、なんだかいつもと違う場所のようだ。
まじめに読書したりイヤホンを付けて机に突っ伏したりと、気ままに過ごす『早出組』のメンツに少し意外性を感じながら、たまには早起きしてこの時間に来るのも悪くないかも、などと思った。

自分の席に座ってしまってから、さてどうしたものかと腕を組む。
ここからミカの席まで距離があるので、自然に声をかけるなら立ち上がって席の近くまで行く必要がある。
でも、わざわざ行ってあいさつして、それで塩対応されたらたぶん立ち直れない。
向こうがこっちに来てくれるのを待つ?いや、でも――

悶々と考えている間に、いつの間にかクラスメイトの数が増えている。
ガヤガヤと聞き慣れたにぎやかさが戻りつつあった教室に、見慣れた黒髪が静かに入ってきた。

あっミカ――と思った刹那、あからさまに教室の『音』が止まる。
その一瞬だけ、いつもいないものとして振る舞っているクラスメイト全員がたしかに『彼女』を見ていた。
当の本人はいつものように、服を着たマネキンのように顔色ひとつ変えずに、何も感じていないかのように、静かに席に着く。
ほんの一呼吸おいて、また何事もなかったかのように教室の空気が動き出した。

初めて目の当たりにする冷たい空気に、冷や汗が噴き出す。
毎日、なのか。ミカが、あの子が教室に入ってくるたびに、みんな『これ』をやってるのか。

いつも無表情を保っているミカより、あの瞬間ミカを見つめていたクラスメイトたちの顔の方がはるかに冷たく、無機質だった。
『血の通った人間』であるはずのクラスメイトたちが、人間のフリをした『人形』のように見えて思わず身震いする。
こんなのに囲まれて、今まで平気な顔をしていたのか、ミカは。アタシは。

あのウワサが流れてから、もうすぐ二ヶ月。
アタシの中ではとっくの昔に『嫉妬とすれ違いが生んだ悲しい誤解』として片付いていたことが、他のみんなの中では依然として『真実』として居座り続けていることに、そのときになってやっと思い至った。

――迷惑かけないからって、そういう意味だったのか。

バカだアタシは。
なんで、これまでのことを全部すっ飛ばして、すぐ友だちになれるなんて思ったんだろう。
『観賞用』だなんて擦れたことを考えていたから、この異常事態を今日まで何とも思わなかったのだ。
きっとミカからすれば、アタシだって『マネキン扱い』をしてくる他のクラスメイトと大差なく見えていただろう。
それなのに、わざわざ危ないところにやってきて、声をかけて、助けてくれた。
アタシはあの日、怖くて何もできないまま見捨ててしまったのに。

長らく眠っていた罪悪感が、ジクジクと胸の奥を突いてくる。
さおちゃん、と呼んでくれたあの笑顔に隠されていたものの根深さを思うと息が苦しくなった。

ミカはずっと、独りで戦い続けている。
とても、とても強い子だと思う。
転校してきたときからあの態度を貫いていたのは、もしかしたら、前の学校でも似たようなことがあったからかもしれない。
親の仕事の都合でっていうのも、もしかしたら……

いろいろと好き勝手な妄想しているのに気づいて、ギュッと頬をつねる。
これじゃ、ウワサを信じて遠巻きにしてる連中と何も変わらない。

ちゃんと、本人に聞いて確かめなきゃ。
ちゃんと、本当の『友だち』にならなきゃ。

勢いあまって立ち上がると、イスの音に気を引かれたのか、いつも目立たない人間が急に動いたのに驚いたのか、周りの何人かがこちらに視線をよこす。
その視線に他意はない、そのはずなのに、たったそれだけで勇気がしぼんでしまった。

もし、ミカと仲良くしたせいでクラス全員に『あの』視線で見られたら。
もし、ミカと同じように『あの』空気に毎日さらされ続けることになったら。

今だってほとんどひとりでいるんだから変わりないだろう、と頭の中で冷静な声がする。
それでもやっぱり、怖いものは怖い。
仲良く話せる友だちがいなくてボッチをやるのと、悪意を持って無視されるのでは少々話が変わってくる。
クラスが違うとはいえ、下手をしたら今いる友だちまで失うことになるかもしれない。
そう考えるとどんどん足の力が抜けて、そのまましおしおと座り直してしまった。

ちゃんと友だちになりたいのに。恩返しもしたいのに。
一体どうしたらいいんだろう。アタシに何ができるだろう。
あのウワサは誤解なんだよって触れ回る?誰が信じる?
一緒に嫌われる覚悟で話しかける?何を話す?
もし失敗したら、そのせいで今より状況が悪くなったら、その後どうする?

その日はずっと、グルグルと繰り返される自問自答で頭がいっぱいだった。
ミカがどんな顔をしているか盗み見る余裕すらなくしたまま、気づけば放課後。
窓の外から運動部の声がかすかに聞こえる。
教室にはもう誰も残っていない。
結局なんの答えも見つけられないまま、トボトボと帰路についた。

来年のクラス替えまで……いや、ひょっとして卒業までずっとこのままかもしれない。
そんなの絶対嫌だ。
この状況をなんとかして変えたい。
何か、何かしなきゃ。 でも、一体何をどうしたら――?

◇◇

何日も何日も考えて、それでもやっぱり結論が出なかった。
自分なりの策として、まずは『あの』空気に慣れようと朝早く登校してみているが、さらされるたびに嫌悪感と何もできない不甲斐なさで頭がおかしくなりそうだ。

このまま自分の頭だけで考えていてもラチが明かない。
そう思って頼りにしたのは、高校で一番の仲良し――素行が悪いと思われて避けられていた当時、真っ先に声をかけてくれた子だ。彼女がいなかったら、アタシは今も友だちゼロで高校生活を送るハメになっていただろう。

彼女は『文武両道』という言葉そのまま、勉強も運動もよくできる。
せっかく元がいいのに、ファッションやメイクにはまるで興味なし。
何もかもアタシとは正反対なのに、不思議とよく気が合うのだ。

『どしたのさおり?急に通話なんて。なんかあった?』
「うん……まあ、ちょっとね」

ふだんのやり取りはもっぱらLINEでしているが、うまく文章にまとめられる自信がなくて、部活の練習が終わっただろう時間を見計らって電話をかけてみた。
いつもは元気ではつらつとした声に心配の気持ちが色濃く出ているのを感じて、まだ何も解決していないのに少し安心する。

気持ちも言葉も整理できていないまま、思いついたことをポツポツと話した。
自分でも何を言っているかよくわからないのに、ときどき相槌を打ちながら『それってこういうこと?』と、ズバリ言いたいことを当ててくる。読解力の神かよ。

『よーするに……そのシカトされちゃってる子と仲良くするにはどうしたらいいかってことね?』
「うん、まあ、そゆこと」
『どうもなにも、話しかけちゃえばいいと思うけどなー』
「いやいや……だって、朱里(あかり)がアタシに話しかけてくれたときも、なんかしら思うことあったっしょ?」
『思うことって?』
「いやだからほら……自分まで嫌われたらどうしよーとか」
『えー、別に?』
「……マジ?」
『だって、誰と仲良くするかしないかなんて人にとやかく言われることじゃないし。そんなことで嫌いになるやつなんてどうせ友だちでもなんでもないんだから、ほっとけばいーじゃん』
「……その鋼メンタルうらやましいわ」

――そんなことで嫌いになるやつは、友だちでもなんでもない。まったくもってその通り。でもね、アタシにはその割り切りができないから困ってんだよ……

そんな弱音が聴こえたかのように、朱里の声色が少し真剣味を帯びる。

『さおりはさ、その子が本当はいい子だって知ってるんでしょ?』
「う、うん」
『誰かに頼まれてイヤイヤやるんじゃなくて、自分が仲良くしたいって思ったんでしょ?』
「……うん」
『だったら、がんばって話してみなよ。このまま何もしなかったら、絶対後悔するよ』
「……うん、だよね。わかってはいるんだけど」
『あとさ。さおりが心配してることはわかんなくもないけど、私は何があってもさおりの友だちやめるつもりないから』
「!」
『クラスが違うから、さおりが辛い思いしててもすぐ助けには行けないけど……でも、私は絶対さおりのこと嫌いになったりシカトしたりしない。だから、安心して』

耳に響く言葉に背中を押されるようで、目頭が熱くなる。
ああ、信頼できる友だちがいるって、こんなに心強いことなんだ。
アタシ、自分で思ってたより、だいぶ人間運よかったのかも。

『どーんと構えて好きにやりなよ。骨は拾ったげるからさ!』
「うん、ありが……って、それ失敗してんじゃん!やめてよ!」

ふざけて笑い合っているうちに、スーッと不安が消えていった。

『親友』にここまで言わせたのだから、もうやるっきゃない。
今度はアタシが、ミカにとっての『いてくれてよかった友だち』になる番だ。

「――はい、じゃあ今日はここまで」

昼休み開始のチャイムが、決戦の合図。
勇気がしぼんでしまわないうちに。足がすくんで止まってしまわないうちに。

ズンズンと勢いよく教室を突っ切り、いつものように菓子パン片手に教室を出ようとしていたミカの前に立ち塞がった。

「みっ――み、あ、どぅふっ!」
「え……」

ザワッ、と周囲の注目が集まっているのを感じて、一気に顔が赤くなった。
ダメだ、また大事なとこで噛んだ。
さっきまで『ミカ』呼びで行くって決めてたのに、なんで直前で『安藤さん』と迷うかな。
周りだけじゃなくてミカもドン引いてるよこれ。
あー怖い怖い怖い。でももうここまで来たら、やるっきゃない。
やるって決めたんだから。

「お、おひ、お昼ごはんを!一緒に!食べませんか‼」

教室中に響くデカ声に、辺りがシン、と静まり返った。
ミカも呆けた顔のまま完全にフリーズしている。
あーーもうやっぱり無理!たすけて朱里!

「――うん」

小さい声で、それでもほんの少しだけ笑ったように見えたのは、きっと気のせいじゃなかったはずだ。

それからというもの、アタシとミカは毎日一緒にお昼を食べた。
と言っても、本当にただ『一緒に食べた』だけだ。

最初のお誘いこそなんとかできたものの、何を話せばいいのかわからない。
お互いに何もしゃべらないまま、ただ向かい合ってご飯を食べて、食べ終わったらそのまま解散。
ただ、そんなアタシたちの妙な習慣も「ボッチ同士でなんか始めたな」くらいに思われたのか、ミカに対する扱いはそれまでと何ら変わらなかった――良くも悪くも。

まったく、これじゃ何のためにやってるんだかわからない。
せめて、ちゃんと話ができるようにならなきゃ。でも、今さら何を話そう。
「いい天気だね」なんて言ったところで、話の続けようがないし。
そもそも向こうがしゃべりたがってるとも限らない。
あーもう、また手詰まりだ。今夜にでもまた朱里に相談して――

「あ、」

いつもの菓子パンではない、巾着に包まれたお弁当に思わず声が出る。
今だ。これだ。

「き、今日、パンじゃないんだね」

やっと出た、会話らしい言葉。
そのとき、ほんの少し、でも確実にミカの口元が緩んだのがわかった。

「今日は、ちょっと早起きできたから」
「……えっ、自分で作ったの?」
「うん。ママがあんまり料理得意じゃなくて」
「マジか。早起きして自分でお弁当作るとかエラすぎる」

素直に思ったことを口にしただけなのに、何がおかしかったのかフフッと笑い声が漏れる。

「ママに頼むと、チーズはさんだだけのサンドイッチとかになっちゃうの」
「おー……そりゃ、菓子パンでいいやってなるね」
「でしょ?」
「うわ、しかもめっちゃ美味しそ……たまご焼きも自分で焼いたの?」
「うん。今日のは、過去イチうまくできたかも」
「すごー」

それまでひと言も話せなかったのがウソのように、ぽんぽんと会話が弾む。
うっすら浮かんだ笑みはちょっと吹けばかき消えてしまいそうだし、声もだいぶ小さいけれど。
やっと、あの日のミカに再会できたようで嬉しかった。

「アタシのお母さんも料理はあんまりでさー。たまーにたまご焼き作ってくれるんだけど、焦げたスクランブルエッグみたいな悲惨な感じになるんだよね……」
「じゃあ、それは?」
「これは店で売ってるやつ詰めただけ!他のもほとんど冷食。これはこれで美味しいからいいんだけどさ」
「美味しいよね、冷食のおかず」
「ねー」

ふと目を上げたとき、ミカの背中越しにクラスメイトと目が合った。
ギョッとして思わず周りに視線を走らせると、クラス中がこちらに注目しているようだった。
よくよく考えれば、これまでほとんど口を開かなかったふたりが急に旧知の仲のようにしゃべりだしたのだから、驚くのも無理はない。
見て見ぬフリをしているようで、やっぱりみんなアタシたちのことを気にしていたのだ。

「――あ、あー。でもさ。あれだよね。なんていうかその」
「え?」
「た、たまにはサンドイッチもいいよね。アタシどっちかっていうとパン派だし」

見られていると思うと、途端にしどろもどろになってしまう。
それでもなんとか会話を続けようと、必死に頭を動かして話題をつないだ。

「てかさ、あれ、フランスパンって美味しいよね、はは」
「……」

きっと、アタシの挙動不審の理由に気づいたのだろう。
ろうそくに灯った小さな火が風に吹かれたように、ふっと笑顔が消える。
見慣れた無表情に戻ってしまったミカは、少しうつむきながら、アタシにだけ聞こえる小さな、小さな声で「ごめんね」と呟いた。

その瞬間、怒りと悲しみと不甲斐なさが入り混じったもので胸が詰まる。
なんで、なんであんたが謝らなきゃいけないの。
元はと言えば、あのエミだかエリだかいう先輩が勝手に勘違いしたのが始まりなのに。
いや、違う。アタシが日和った態度を見せてしまったせいだ。

――やるなら最後までちゃんとやりなよ、バカ!

やり場のない気持ちが込もった両手で、思い切り頬を叩く。
ベチンッ!とマンガみたいに大きな音が教室中に響き渡った。
この唐突な奇怪行動で余計に注目が集まっているのを肌で感じたが、もうそんなことはどうでもいい。

「……ど、どうしたの?」

さすがのミカも、ポーカーフェイスが崩れて少し慌てた顔をしている。
じわじわと熱を帯びて強くなっていく痛みが、不思議と少し心地よかった。

「――家どこ?」
「……え?」
「今度遊びに行くから。住所教えて」
「えっ?」
「あとミカのママにもちゃんとあいさつしたいから、フランス語も教えて」
「ええっ??」
「アタシの頭でも覚えられるやつにしてね。短くてカンタンなの」

自分でも何を言っているんだかよくわからなかった。
けど、このまま逃げたら、きっと後悔すると思ったから。
「アタシは何があっても、ミカの友だちやめるつもりないから」って、ここでちゃんと伝えておきたかったんだ。

「……うん。わかった」

言い終わるのを見計らったように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
いつもより心なしか大きく感じるチャイム音の中、あの日と同じあの笑顔が、ようやく分厚い仮面の下から垣間見えた。

「じゃあ、またあとでね――さおちゃん」

◇◇

それからというもの、アタシはミカにうっとうしいくらい積極的に絡みに行くようになった。

毎朝がんばって早起きをして、校門の前でミカを待ち伏せた。
うつむきがちに歩くミカが気づくより先に「おはよ」と声をかけ、教室まで他愛もない話をしながら歩いた。
ふたり一緒に教室に入って、クラス中の視線をふたり一緒に受け止めた。
昼休みは一緒にご飯を食べて、予定が合えば放課後に遊びに行く約束を取り付けた。
別れ際には、毎日必ず「またあした」と言い合った。

居眠りしてしまった数学のノートを見せてもらったり、逆にミカが苦手だという国語を少しだけ教えたり。
テレビで見たバラエティの話題で盛りあがったり。
帰り道は方向が正反対だったけど、わざわざ学校近くのコンビニに寄って一緒に買い食いをしたり。
家に帰ってから、なんでもないことをLINEで延々と話したり。
他にもたくさん、たくさん『友だち』らしいことをした。
ミカも、アタシと話すときだけは、仮面を取って『素』に近い自然体で話してくれるようになった。

クラス中から奇異の目で見られていることを除けば、それはいたって普通の『女子高生の日常』だった。
だからといって他のクラスメイトたちが話しかけてくることもなかったが、少なくとも『悪意ある無視』から『好奇心と少々の後ろめたさが混じった注目』に変わったのが感じられたのは大きな収穫だったと思う。

周りからすればこの在り方はとても異質で、同情を誘うような痛々しさがあったかもしれない。
でも、アタシたちにとっては間違いなく、平和で楽しい日々だった。

◇◇

それはたしか、冬服にはまだ暑いよねーと言い合いながら下敷きで顔を扇いでいた、十月の始めの頃。
分厚い分厚い氷の壁が、ようやく緩んだ瞬間だった。

「……あ、あの。安藤さんと小林さんも、よかったら」

おずおずといった様子で、ひとりの女子が声をかけてきた。
手にしているのは個包装のチョコレート。
この学校は菓子類の持ち込みには厳しくないので、休み時間や放課後に友だち同士でこういったことをやるのは日常茶飯事だ。
とはいえ、特別親しくもない相手にわざわざ声をかけてまですることはあまりない。
つまりは、向こうから明確に『友好の意』を示してきたということだ。

彼女はたしか、学級委員だっただろうか。
これまでの態度を棚に上げて、今さらになって「クラスみんなで仲良く」などという気になったのだとしたら、ずいぶん腹立たしい話ではある。
『これ』を受け取ることで、これまでのことを許したと解釈されるのも癪だ。
でも。これは、きっと、喜ぶべきことだ。

横目でミカの様子をうかがうと、思ったとおり『対その他大勢』用のポーカーフェイスになってしまっている。
それでもめげずに差し出され続ける手に、ほんの少しだけ顔が緩んだ。

「――ありがと」

小さな、小さな声。
それでもちゃんと、相手には届いたようだ。
ほっとした表情に、こちらの緊張も少しほぐれる。

「小林さんも、好きなの取ってね」
「……あ、うん。ありがとー」

その頃を境に、クラス全体の雰囲気が明らかに好転したのを感じた。
具体的には、朝教室に入るときの『あれ』がなくなったのだ。
そして時を同じくして、校内のゴシップに疎いアタシの耳にも、そのウワサは入ってきた。

曰く、例のエミと付き合っていたユウヤとやらが、三股をかけていたのがバレて大修羅場になったらしい、と。
ミカとの一件の後、エミといったんヨリを戻したらしいのだが、最近になって他校の女子と仲良く街を歩いているのをクラスメイトに見つかり、エミともうひとりとでどういうことかと問い詰めているところに「私こそが本命だ」と第三のオンナが現れて……と、ちょっとしたドラマになりそうな壮絶なストーリーだ。

聞こえてきた話をつなぎ合わせただけなので真相は確かではないが、もしすべて真実だとしたら、ミカは本当に不運な形で最悪な男の色恋沙汰に巻き込まれたことになる。
まったくもって、迷惑極まりない話だ。

しかしながら、これだけ盛大に自爆してくれたおかげで、ミカに関するウワサも「悪いのは男の方だったんだ」とスムーズに受け入れられたようだ。
あのチョコのおかげで誤解が解けやすくなったのか、それとも誤解が解けたからこそのチョコだったのか。
今となっては確かめる必要もないことだが、こうしてミカを苦しめたものの根源は、意外な形であっさりと消えてなくなっていった。

◇◇

日に日に寒さが増していき、冬の訪れがすぐそこまで来ているのを感じる朝。
肌を刺す冷たい風とは裏腹に、心は穏やかな春の陽気に包まれたようにあたたかだった。

「さおちゃん、おはよう~!」

空に透けそうな金色の髪を風になびかせながら、満面の笑みを浮かべたミカが走り寄ってくる。
今日は土曜日。ミカと一緒に、テレビでやっていたイタリアンの店にランチに行くのだ。
学生でも手が届きやすい値段で、味も美味しくて、さらに見た目もしっかりSNS映えするとのことで、若者を中心に人気が広がっているらしい。

休日のお出かけは、ミカにとっては『素』を、アタシにとっては『理想の姿』をさらけ出せる最高のイベントだ。
特に目的がなくても、お互いにめいっぱい着飾って街に繰り出すだけで楽しかった。
「来年は受験で忙しくなるから」という良い口実を見つけてからというもの、ほぼ毎週のように会っていた。

「……あ!そのニット、こないだ買ったやつだよね?やっぱりかわいいな~」
「ふっ、へへっ、ありがと」

ミカは、あれ以来アタシ以外のクラスメイトと話す機会は多少増えたようだが、自分から誰かに接触するということは相変わらずほとんどない。
許したくない……という気持ちとは少し違う気がするが、まあ少なからず思うことはあるだろう。
せっかく誤解が解けたのだから、学校にいるときも今みたいに伸び伸び過ごしてほしいというのが正直な気持ちだ。
でも、これ以上はたぶん、アタシがとやかく言っていい問題ではない。
いつか、ミカがこの状況を変えたいと思うことがもしあったら、そのときに全力で応援すればいいだけだ。

「――うわ、もう結構混んでるね」
「早めに来たのにね~。さすが人気店って感じ!」

まだ十一時を少し回ったところだが、開店直後にも関わらずすでに店の中は満席に近い状態だった。
店員に席を案内されながら他の席を見やると、ほとんどがテレビで取り上げられていた人気ナンバーワンの自家製パスタを注文しているようだ。
やっぱりみんな考えていることは同じらしい。
こちらも席についたら即注文、くらいのつもりでいたのだが、いざメニュー表を見るとどれも美味しそうで目移りしてしまう。

「んー、迷うな」
「どれもおいしそうだよね~。私こっちにしようかな」

ミカが指差したのは、『秋限定』と太字で書かれたピザ。
きのことチーズがたっぷり乗っていて、見ているだけでよだれがあふれてくる。
パスタと同じく一から生地を手作りしているとかで、ピザもパスタに負けないくらい人気が高いらしい。
パスタよりシェアもしやすいし、常設メニューはいつでも食べられるし……と、ふたりともピザを注文することにした。

「――お待たせいたしました、ご注文お伺いします」
「えーっと、この『秋限定』の……」
「あっ、申し訳ありません!こちらつい先ほど終了してしまいまして……」

言い終わるより先に、申し訳無さそうな店員の声が遮る。
おっと、残念。お互いに目を見合わせながら苦笑いして、当初の予定通りのパスタに変更した。
厨房に引き上げていく店員の背中を見送りながら、ミカの眉尻が露骨に下がっていく。

「あ~あ。つい先ほどってことは、あとちょっと早く来たら間に合ったかな?」
「まー、もうすでに『秋』ってよりは冬だしね。また来年のお楽しみってことで」
「……そっか。そうだね。また来年、だね!」

ふにゃっと照れたように笑うその顔は、なんだか見るのが久しぶりな気がした。

週が明けて、またやってきた月曜日。

「ミカ、おはよ!」

いつものように、校門の前で声をかける。
これまでと何も変わらない、いつもと同じ朝――だったはずだった。

「……」

まるで、転入してきたあの日のように表情が乏しい。
そのままこちらに見向きもせず通り過ぎていきそうになるのを慌てて呼び止めた。

「ちょ……ちょちょちょ、ミカ!アタシだよ!」
「――えっ、あ!ごめんごめん、おはよ~さおちゃん」

取り繕うように貼り付けられた笑顔には、いつもの明るさが感じられない。
アタシの声にも気づいていなかったようだし、もしかして何か悩み事だろうか。

「……ねえ、なんかあった?」
「いや~別に、何も――」

言いかけて、口をつぐむ。
登校してくる他の生徒たちが、邪魔なところで立ち止まったふたりを横目で見ながら通り過ぎていく。
急かしたくなるのをグッと抑えて、待った。

「……今日、さ。放課後、ちょっと時間ある?」

「朝はごめんね。ちょっと、考え事してて」
「ん、まあ、それは別にいーんだけど」

誰もいなくなった教室で、ミカの机を挟んで向き合って座る。
昼休みにお弁当を広げるときと同じ場所のはずなのに、窓から差し込んでくる夕日のせいか、シンと静まり返った雰囲気のせいか、妙な居心地の悪さを感じた。

「また誰かにひどいことされた?」
「ううん。それはないんだけど」

困ったように眉を下げたまま、もじもじと手の指をくねらせている。
いじめられているわけではないとわかって、少し緊張がほぐれた。

「そっか……なら、恋愛相談?」
「えっ!?違う違う!」
「なーんだ、これもハズレか。まあアタシに相談されても大したアドバイスできないけどー」
「あはは」

少し笑って、ようやくミカも気が緩んだようだ。
くねらせていた指の動きが止まる。

「こんなこと、わざわざ誰かに言うの初めてだから。どう伝えればいいのかなって思って、ちょっと緊張しちゃった」
「……うん?うん」

組んだ両手に、目を落としたまま。

「実はね。来月、また引っ越しすることになったんだ」
「……えっ?」

冷たい秋風が、音を立てて胸の中を吹き抜けていった。

親友

「今までこんなに短い間隔で転勤になったことなかったからさ。高校は卒業までいられると思ったんだけどな~」

そう言って苦笑いを浮かべるミカに、アタシは何と言っていいのかわからなかった。

「……ら、来月って、いつ……?」
「え?え~っと。十二月?」
「じゃなくて。何日までいられるの」
「あ~……たぶん、月初めには」

そんな。もうあと二週間くらいしかない。
転勤って、そんなに急に決まってしまうものなのか。

「な、なんでそんな急に?こんな中途半端な時期って、普通じゃないんでしょ」
「ん~……なんか、地方の支店でいろいろあったみたいで。詳しくは教えてもらってないんだけど、パパじゃないとどうにもならなさそうなんだって」
「そ……そう」
「それでさ、こんな時期だから、転入できる学校も限られてて。編入試験落ちたら大変だから、がんばって勉強しないとなの」
「あ……ああ、そうか。試験があるんだ」
「うん。……だから、もう」

一緒に遊んだりできない。
そう呟いたミカの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

「…………そっ、か」

あまりのことに頭が真っ白になって、それ以上何も言うことができなかった。

転勤。引っ越し。
来月には、もういない。

受け止めきれない言葉たちが、未消化のままグルグルと何度も頭を回る。
ハッと気づいたときには、電気の消えた自分の部屋で布団をかぶっていた。
あの後ミカと何を話したのか、どうやって家に帰って来たのか、晩ごはんやお風呂はどうしたのか、何も覚えていない。
記憶と一緒に魂の一部も抜け落ちてしまったようで、今いる場所が現実だという実感すらあいまいだった。

「……『また来年』は、もうないってことか……」

ポロッと口からこぼれた言葉が、虚しく暗闇に溶けていく。
相変わらず実感は湧かないのに、その言葉の響きだけで胸が苦しくなる。
当たり前に来ると思っていた「また来年」が、こんなにもろく崩れてしまうなんて。

「…………あ、そうだ、誕生日――」

ミカの誕生日は一月だと言っていた。
「今まで『友だち』に祝ってもらったことないんだよね……冬休み中だから」とどこか寂しそうに言うミカに、それなら『初めて』はアタシがいただきだ、家まで行くから待ってろと言って笑わせたのはついこの間のことだ。
来月で引っ越してしまうなら、誕生日のお祝いもできないじゃないか。

「……なんで。なんでかなあ……」

そこまで思い至って、ようやく実感が湧いて。
自分ではどうにも太刀打ちできない現実に、今までで一番しょっぱい涙があふれた。

「――ミカ、おはよ」
「おはよ、さおちゃん」

朝、いつものように並んで生徒玄関まで歩く。
でも、どんな顔で何を言えばいいのかわからなくて、他愛のない雑談も妙にぎこちなくなってしまう。
モヤモヤと言葉にしきれないもどかしさで、数学の授業はいつにもまして集中できない。
机の隅に空いた小さな穴にグリグリとシャーペンを押し込みながら目をやると、ミカはきちんと集中して授業を受けているようだ。

――そりゃ、そっちは慣れてるだろうけどさ。

自分の悲しみ方が大げさだと言われているような気がして、なんだか納得がいかない。
どんなに距離が離れていたって、LINEでいつでも連絡が取れるっていうのもわかってる。
でも、そうじゃない。そうじゃないんだ。

ミカと一緒に過ごしたこの数ヶ月を、ずっと忘れずに覚えていたい。覚えていてほしい。
息苦しさと楽しさを分かち合った毎日を、あっさりと『過去』にしてしまいたくないんだ。

「――はい、じゃあ今日はここまで」

授業終わりのノートには、板書の代わりに『誕プレ』『思い出』『形に残る』『せんべつ?』といったメモが乱雑に残されていた。

◇◇

「……うーん。なんっか違うんだよなー」

ベッドに寝転がりながらいじっていたスマホを脇に置き、ガシガシと頭をかく。
引っ越しの前に誕生日祝いを兼ねたプレゼントを贈ろうと決めたのはいいが、なかなかピンと来るものが見つからない。

高校生で買える値段で、友だちへの誕生日プレゼントとなると、紹介されているのは菓子や入浴剤などの消えものばかりだ。
普通ならそういったものを選ぶのがベターなのだろうが、今回はいろいろと事情が違う。
手に取るたびに記憶がよみがえるような、いつまでも形に残るものがいいのだけど。

そんなことを延々考えて、結局何も決められないまま。
ミカと遊べなくなった代わりに学校から帰ったあとの時間をプレゼント探しに費やしているのだが、あっという間に週末になってしまった。

ミカの転校まで、あと一週間。
こうしている間にも、早く決めないと間に合わないという焦りばかりが募っていく。

「……やっぱ、目で見て決めんのが一番かな」

翌日。機動力重視のスニーカースタイルに身を包み、なじみのショッピングモールへと繰り出した。
ミカと一緒に見て回るたびに、あれがほしいこれがかわいいと言い合っていたから、きっと何かヒントが見つかるはずだ。
……と、思ったのだが。

「やっぱりなんか、違うんだよなー」

いつもはどこもかしこもキラキラ輝いて見えるのに、今日に限って色があせたようでまったくときめかない。
早々に見切りをつけ、スマホを片手に雑貨屋やアクセサリーショップをいくつもハシゴしたものの、これだと思えるものは見つからなかった。

お気に入りの服を着て、しっかりメイクをして、別人のようにキレイになって街を歩く。
今まではひとりでも充分楽しかったはずなのに、隣にミカがいないだけでなんだか寂しい。

「――げっ!もうこんな時間か」

夢中になって歩き回っていたから気づかなかったが、スマホの時計がもう十五時近くになっていた。
自覚した途端に腹の虫が鳴きだすわ、喉の乾きも気になりだすわ。
数時間かけて何の成果も得られなかったという徒労感も相まって、一気に食べ物のことしか考えられなくなってしまった。

「……とりあえず、なんか食べよ。なんか……なんか、とびきり甘いやつ……」

呟いた声が聴こえたかのように、どこからともなく甘い香りが漂ってくる。
本能の赴くまま香りをたどって歩いていくと、表通りから目立たないところにこじんまりとした佇まいのカフェがあった。

――こんなところにカフェができたなんて知らなかった!しかもかわいい!

ヨーロッパを思わせるレンガ調の小洒落た外観に、さっそくテンションが上がる。

店内は落ち着いた雰囲気で、お昼どきを過ぎたにも関わらず狭い店内は賑わっていた。
人気ナンバーワンと書かれたふわふわパンケーキに心惹かれたものの、少しでも早く空腹を満たしたい一心ですぐ出てきそうなチョコケーキとドリンクのセットを注文することに。

「はあー……生き返るぅー」

口いっぱい広がる甘みに、疲れ果てていた心身に少しずつ元気が戻ってきた。
ぺろりと平らげてから、さすがに小ぶりなケーキひとつではやや物足りなくてメニュー表に手を伸ばす。
あと少しの満足感にちょうど良さそうなものを探している間に、斜め向かいの席に運ばれてきた、見本写真と遜色ないふわふわのパンケーキに目が奪われた。

――あーやっぱ美味しそう。今のコンディションならギリいけそうだな……いやダメダメ、今は時間ないんだから……そうだ、また今度ミカも誘って、一緒に来たとき注文したらいい……

そこまで考えてしまってから、もうそんな未来はありえないのだという現実に心が塞いだ。
食欲も一気に失せてしまい、当初の目的を思い出してスマホを取り出す。
そこまで長居はしていないつもりだったのに、思いの外進んでしまった時計に余計気分が沈んだ。

回復したはずの元気をメンタルダメージに根こそぎ持っていかれながら、すごすごとレジに向かう。
ところが、間の悪いことに店員の姿はない。
奥の厨房に人の気配はあるが、静かな店内で大きな声を出すのは少々気が引ける。
気づいてもらえるまで大人しく待つか、それとも呼び鈴がどこかにあるか……と、キョロキョロうろうろしているうちに、レジの脇にひっそり置かれたそれが目に入った。

――わ、なにこれ。かわいい!

光を反射してキラキラと輝く、小さなガラスのインテリア。
透明な液体の中に浮かぶカラフルな球には、それぞれ数字が書かれたプレートが付いている。
似たようなものをインスタか何かで見たことがある気がするが、何というんだったか。

「すみません、お待たせしましたー!」
「あっ、いえ……」

はつらつとした女性店員が奥から出てきた。
まだ若そうに見えるが、名札には『店長』と書かれている。
会計してもらっている間も、そのインテリアが気になってチラチラと盗み見た。

かわいくて、形に残るもの。
このサイズなら引っ越しの邪魔にもならなさそうだ。
もしかしたら『これ』かもしれない。
せめて、せめて名前がわかれば――

「……あっあの、これって、その」

ふだん店員と積極的に雑談したりはしない。
勇気を振り絞って声をかけると、その店長は気さくに応じてくれた。

「あ、それですか?かわいいですよね!」
「あっはい……何でしたっけ、これ」
「『ガリレオ温度計』っていうらしいですよ。子どもの頃からの親友が開店祝いにくれたんです。ここ、わかりますか?」

指差したところには、淡いゴールドで店名と日付が彫られていた。

「店の名前とオープンした日を記念に入れてくれたんです」
「へぇー、すごい」
「私、ちっちゃいときからカフェを開くのが夢で。これ見てると『おめでとう』って泣きながら渡してくれたときのこと思い出して、また明日もお店がんばろうって思えるんですよね」

ニコニコと嬉しそうに話す店長に、こちらもつられて笑顔になった。
世の中にはこういったサービスもあるのかと感心しながら、どんどん確信が強くなっていく。

時間が経っても、消えずにずっと残るもの。
見るたびに思い出がよみがえって、笑顔になれるもの。
そばにいなくても、あたたかい気持ちが伝わるもの。

「あ、の。この、名前入れたりするのって、普通のお店ではしてないですよね?」
「あー、たぶんそうですね。ネットで見つけたって言ってたかな」
「おっお店の名前って、わかります?」
「えっと……ちょっと待ってくださいね。たしか、名前は――」

「――あった!これだ!」

家に帰ってさっそく店長に教えてもらった『きざむ』という店名で検索すると、『名入れギフト専門店きざむ』 target=”_blank”というオンラインショップがヒットした。
なるほど、ああいうのを名入れギフトというのか。

他にも数多く商品が並ぶ中、『売れ筋商品』としてピックアップされているものの中に目当てのガリレオ温度計を見つけた。
いかにも日本人らしい考えではあるが、『たくさん売れている』『みんなが買っている』といわれると自分のセンスが間違っていなかったことを証明されたようで嬉しい。
これなら、きっと喜んでもらえるはずだ。

「えーっと、火曜日に発送予定ってことは……うん、ちゃんと間に合うよね。大丈夫」

名前を彫るのにかなり時間がかかるかもしれないと思ったのだが、引っ越し当日までには間に合いそうだ。
あまりギリギリだと家に押しかけるのも迷惑かもしれないと思っていたから、早く届けてくれるのは助かる。

ずっと形に残るプレゼント。
どんな言葉を贈ろうか。どんなメッセージなら、より喜んでもらえるだろうか。

考えて考えて、文字数が限られた入力欄の中で何度も書いては消しを繰り返した末にようやく心が決まった。

「――ちゃんと、喜んでもらえますように」

その夜、久しぶりに夢を見た。
まるで走馬灯のような、ミカと初めて会ったあの日から今日までの思い出を切り貼りしたような、長い長い夢。

目が覚めたときに真っ先に感じたのは、とても大事なことを忘れていたことへの罪悪感だった。

「おはよ、ミカ」
「……おはよ、さおちゃん」

いつものようにあいさつして、いつものように並んで歩く。
この日常も、今日が最後。
ミカの一家は明日、土曜日の朝早くに出発して、週明けからは新しい環境での生活が始まるのだ。
ここのところ勉強やら転校の手続きやらでずっと忙しそうにしていたが、今日はいつにも増して顔色が悪く見える。

「……もしかして、体調悪い?顔色悪いよ」
「う~ん……昨日、あんまりよく眠れなくて」
「そっか。初めてじゃなくても、転校ってやっぱ緊張すんの?」
「緊張……では、ないかな。でも、今までで一番しんどいかも」
「……?その心は?」
「え~、だって……さおちゃんとお別れするの、悲しいから」

無理に作ったのがわかる引きつった笑顔に、お世辞でもなんでもない本心で言ってくれているのだと悟った。
ああ、よかった。別れを惜しんで、夜眠れなくなるほど悲しんでいたのは、アタシだけじゃなかったんだ。

「あのさ、ミカ。忙しいかもしんないけど、今日だけちょっと、時間もらっていい?」

放課後。クラスメイトの何人かが、ミカに別れのあいさつを言いに来た。
あの頃は、こんな光景が見られる日が来るなんて思いもしなかった。
これが最後でさえなければ、どれほど良かったことだろう。
そうであってほしいと願うアタシの思いがそう見せただけかもしれないけれど、応対するミカの顔は、いつもよりほんの少し明るく見えた。

誰もいなくなった教室で、ミカとふたり、あの日と同じように向き合って座る。
隣を歩くたびに羨ましく思っていた長いまつげが、夕日に当たって輝いていた。

「……あのさ、これ。誕生日には、ちょっと早いけど」

手提げからギフトボックスを取り出し、ミカに差し出す。
伏し目がちだった顔に、ぱあっと明かりが灯った。

「わあっ……プレゼント?うれしい!ありがとう!ここで開けていい?」
「もちろん」

ゴソゴソと開封する様子を、内心ドキドキしながら見守る。
箱の中からガリレオ温度計が姿を表すと、ミカの大きな瞳がさらに見開かれた。

悩んだ末に彫刻した文字は、『Mika  Happy Birthday』という、何のひねりもない内容だ。
それでも、ちゃんと喜んでもらえたのだろう。
ぽたり、とまるいガラスに水滴が落ちた。

「……これ。これ、すごいね。名前入りのプレゼントなんて初めて」
「うん。我ながらセンスあると思うわ」
「あはは」

涙をこぼしながら笑うミカに、こちらの目にもじわじわと熱いものがこみ上げてくる。
それと同時に、あの夢を見てからずっと心の底で引っかかっていたことを言う勇気が湧いた。
これが最後だ。ちゃんと、後悔のないように。
これから先もずっと、胸を張ってミカの友だちであり続けるために。

「……アタシね。ミカに、謝らなきゃいけないことがあって」
「え?あやまる?」
「……前に、さ。あのウワサ流されたときに、先輩たちに絡まれたことあったでしょ。体育館側の階段で」
「うん」
「あれ……あのときさ、見てたのアタシだったんだ。何もしないで逃げちゃって、ごめん」

こらえきれなかった涙が、ポロポロとこぼれ落ちる。

「ミカは何もしてないって、はっきり言ったのに。アタシはそれが本当だって思ったのに。ウワサは誤解なんだよって、誰にも言わなくてごめん。もっと早く助けてあげられなくて、ごめん」

これじゃあミカが怒るに怒れないだろう、泣くな、と思うのに、涙は止まらない。
何を言われるかとうつむいたまましばらくそうしていたが、一向にうんともすんとも言わないのを不思議に思って顔を上げる。
なぜだかミカは、泣きながらにっこりと微笑んでいた。

「も~。急に何言い出すかと思ったら。ずっとそのこと気にしてたの?」
「……いや、その、最近になって思い出したって方が近い、です……」
「そっか。ならよかった」
「――は?」

大事なことをすっかり忘れてのんきに『友だち』をやっていたという告白をしているのに、この子はなぜ笑っているんだろう。

「私ね、知ってたよ。あのときあそこにいたのがさおちゃんだって」
「えっ!?」
「さおちゃんは何もしてないって言うけどさ。あのとき、あのタイミングで逃げてくれたおかげで助かったんだよ」
「そ……そうなの?」
「ていうか、それがなかったらナンパされてたときに声かけてないもん。恩返しのつもりだったし」
「えええっ……」

衝撃の事実に、思わず腑抜けた声が出る。
そんなアタシを見て、ミカは無邪気に声を上げて笑った。

「でも、そっか。そんなふうに思ってくれてたんだね。さおちゃんらしいな~」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。……だから、これからもさおちゃんはさおちゃんらしくいてほしいな」
「アタシらしく?」
「うん。もしまた、私みたいな子を見つけたら、友だちになってあげてほしい。私の勝手なお願い」

いたずらっぽい笑顔とともに飛ばしてきたウインクに、胸がキュンと音を立てる。
そういうこと急にすんのやめて、アタシが男だったら恋してるとこだよ。

「……わかった。がんばってみるわ」
「えへへ、やった~」
「……。あのさ、アタシも『勝手なお願い』してみてもいい?」
「うん、どうぞ~」
「じゃあ……ミカも、ミカらしくいてほしい」
「え?」
「今、アタシと一緒にいるときみたいに、学校にいるときもありのままのミカでほしい、ってこと」

ミカは驚いたような顔をして、そのまま固まってしまった。
これは、アタシの単なるエゴだ。
ミカにとっては、余計に苦しいことなのかもしれない。
わかってはいても、またミカがあの『マネキン』を次の学校でもやるのかもしれないと思うと耐えられなかった。

「ミカがなんで、学校では笑ったり喋ったりをほとんどしないのか、アタシはしらない。きっと今までたくさん辛いをしてきたからなんだろうなとは思う。けど、でも、それでもアタシは――」

初めて見た弾けるようなあの笑顔は、きっと一生忘れない。

「アタシは、たくさん笑うミカの方が好き。だから、次の学校でも、ちゃんと笑っててほしい」
「さおちゃん……」
「学校中のみんなが『素』のミカをキライだって言っても、アタシは絶対にミカの友だちをやめないから。すぐに助けには行けなくても、絶対にアタシだけは味方だから。だから――」

ほとんど全部が受け売りなのに気づいて、途端に恥ずかしくなる。
これはこれで、間違いなく本心なのだけど。

「……あ~あ。やっぱり転校したくないな~」
「えっ、そんなに嫌……?」
「だって、こんな素敵なこと言ってくれる友だちと離れ離れになっちゃうんだもん。嫌に決まってるじゃん」

笑うミカの瞳が、ガラスのように光を反射してキラキラと輝く。

「でも、がんばるね。さおちゃんが応援してくれるなら、きっと大丈夫だって思えるから」
「……うん。ありがとう」
「よし、じゃあ指切りしよ!お互いの『お願い』を守るやくそく!」
「えっ、指切り!?」
「だめ?」
「いや、だめっていうか……小学校ぶりだから」
「いーじゃん、高校生でも!」

屈託のない笑顔。
頬を伝う涙。
無邪気な笑い声。
細く長い指から伝わるぬくもり。

きっと、これから先何度でも、この一瞬のことを思い出す。
記憶の中に、心の奥に、一生消えないくらい深く刻み込んだから。

エピローグ

昔から、人に嫌われることが多かった。
日本人っぽくない顔。
色素の薄い瞳と金髪。
間延びする話し方。
同じ年頃の子どもたちより高く伸びていく身長。
誰もが名を知る大企業に勤める父と、美人な外国人母。

持って生まれたものの何かしらが、相手の機嫌を損ねてしまう。
生まれも育ちも日本なのに、ただ普通にしているだけのつもりなのに、周りには『普通の子』として受け入れてはもらえない。
「日本人なんてキライ」と言って泣く私に、父は「じゃあ、日本人以外のお友だちを作ろう」と明るく言った。

インターネットの使い方を教わって、同じような境遇の子と出会った。
チャットでお互いのグチや悩みを言い合ううちに、私たちはとても仲良くなった。
ある日、どちらからともなく、ビデオ通話で顔を見ながら話そうという流れになった。
初めて見たその子の髪は、日本人でもまたに見かける程度の濃いブラウン。
私の頭を見て、その子は「フランスと日本のハーフでブロンドなんて、変なの」と冷たく言った。

そのときになって初めて知ったことだが、『外国人』と聞いて日本人の多くが想像する金髪は、フランスではごくごく少数らしい。
言われてみれば、たしかにママもブラウンヘアだ。
「私はママとパパの子じゃないの?」と言って泣く私に、母は「あなたは絶対に、私たちふたりの子よ」と悲しそうな顔で言った。

日本人にとっても、フランス人にとっても、同じハーフにとっても『普通じゃない』私は、誰とも友だちになんかなれない。
本当に私のことを理解して愛してくれるのは、この世でママとパパだけ。
からかわれたり毛嫌いされたりを繰り返すうち、その思いは年を重ねるごとに強くなっていった。

家族以外の人と一緒にいるときは、なるべく感情を表に出さないようにした。
しばらくそうしていると、面白がってからかってきた子たちは、いつの間にか興味をなくしていった。
このやり方で、誰とも仲良くできない代わりに、誰にも傷つけられない平穏が手に入った。
パパの転勤が頻繁にあったおかげで、どんなに居心地が悪い学校でも「あと少しでおさらばだ」と思えば我慢ができた。

高校に上がるタイミングで、自分から「黒く染めたい」と言った。
思いの外真っ黒になってしまった髪に最初は戸惑ったけれど、金髪をいじられるよりマシだと思えた。
それに、『妙な黒髪』の印象ができたおかげで、ウィッグを付けてしまえば学校の外で誰かに会ってもまず気づかれない。
この頃から、学校がある日以外はウィッグを付けるのが習慣になった。
あんなに嫌だった金髪なのに、ウィッグなら『学校で孤立している安藤ミカ』と別人になれたようで、そのときだけはありのままの自分を出せた。

髪を染めたのが良かったのか、たまたま人が良かったのか、その学校では友好的に話しかけてくれる子が何人かいた。
そして、そこで初めて『友だち』と呼べる子ができた。
『彼女』は孤立していた私に、事あるごとに声をかけて、気にしてくれた。
家の外で初めて触れる優しさに、少しずつしゃべったり笑ったりができるようになっていった。

「人によって態度変わりすぎてキモい」
「調子乗ってる」
「ハーフだからってちやほやされて」
「ぶりっ子ウザい」

でも、やっぱり、私が『普通』にしているのが気に入らない人はたくさんいた。
その人たちに気圧されて、誰も私に近づいてこなくなった。
『彼女』はいつもとても優しかったけど、一緒になって矢面に立ってはくれなかった。
申し訳無さそうに目をそらす『彼女』を見て、もう二度と友だちなんか作らないでおこう、と思った。

二年生になるタイミングで転入した高校でも、絶対に誰にも気を許さないという決意は揺るがなかった。
それなのに、あの妙にチャラついた先輩に目をつけられたせいで、平穏な生活は一変してしまった。
今度こそ、誰にも傷つけられないで過ごせると思ったのに。
なんでいつもこうなっちゃうんだろう。誰か、誰かたすけて――。

先輩女子たちに囲まれながら、藁にすがるような気持ちで顔を上げたとき、見覚えのある顔と目が合った。
彼女がバタバタと大きな音を立てて走り去ったことで、先輩たちはチクられることを恐れたのか、それ以上何もしてこなかった。
ただの野次馬精神だろうと思いつつも「もしかしたら助けようとしてくれたのかもしれない」という思いが捨てきれなかった。
いずれにしても、結果的に助かったことには変わりない。
会話すらしたことがないそのクラスメイトに、心の中でそっと『ありがとう』と呟いた。

そんな彼女を、今度は街で見かけた。
学校にいるときとは別人のように着飾った彼女は、とても輝いて見えた。
恩返しをするなら、今。
どうせ気づかれはしないという自信も相まって、怪しい男たちに立ち向かう勇気が湧いた。
でも、ウィッグを付けて『別人』になったはずの私をひと目見て、彼女は――さおちゃんは私だと気づいた。
それが、なぜだか無性に嬉しかった。
『素』のままに振る舞う私を見ても、さおちゃんは少し驚く素振りを見せただけで、嫌そうな顔ひとつしなかった。
それどころか、向こうから『友だち』になろうとしてくれた。
とっても嬉しかった。でも、前の高校の『彼女』の顔がよぎって、どうしても素直に喜べなかった。

学校では、相変わらずひとりのまま。
さおちゃんも、わざわざ話しかけてくることはなかった。
それでいい。これでいい。
またいつか学校以外の場所であったら、そのときにまた『ミカ』って呼んでくれたらいいな。
そう思っていた。

「お昼ごはんを!一緒に!食べませんか‼」
声を震わせながら、クラス中の注目を浴びながら、そう言ってくれた。
ああ、もしかしたら、さおちゃんとなら、本当の『友だち』になれるのかも。
毎日毎日、周りの視線を物ともせずに『友だち』として接してくれるさおちゃんのかげで、積み重なった心の傷は少しずつ癒えていった。

やっと、やっと私にも『親友』と呼べる子ができた。
それだけで、目に入るものすべてが別世界のように輝き出した。
毎日の代わり映えしない日常が、この上なく幸せだった。
だから、またパパが転勤だと聞いたときは、地面が崩れていくような絶望を感じた。

これまでは、心の底から待ち望んでいたことだった。
転勤と転勤の間は、短ければ短いほどいいと思っていた。
でも、今は違う。
生まれてはじめて、ずっとこの学校にいたいと、ずっと一緒にいたいと思える友だちができたのに。
こんなときに限って、過去最短記録を更新してしまうなんて。

日本ではこういったとき、単身赴任という選択をすることが多いと思う。
でも、家族との時間を何より大切にするフランスの文化に重きを置く母には、端からその選択肢はないようだった。
今の高校をやめたくない、卒業まで一人暮らしをするとワガママを言ってみたが、世間知らずの一人娘の主張は当然受け入れてはもらえなかった。

これまでやってきたことを、また繰り返すだけ。
それだけなのに、さおちゃんと別れるのが辛くて辛くてたまらなかった。
私にとっては唯一無二の友だちでも、きっとさおちゃんにとっては違う。
これから先、当たり前のように他の友だちができて、その子たちと過ごすうちに私のことなんて忘れてしまうだろう。
そんなの耐えられない。私とさおちゃんの思い出を、なかったことにしたくない。

そんな私の気持ちに応えるように、さおちゃんはとっても素敵なプレゼントをくれた。
消えないメッセージが刻まれた、かわいい小さな温度計。
そして、『何があってもずっと友だち』という言葉。
間違いなく、私の人生で一番幸せな瞬間だった。

寂しくて泣きそうな日も、温度計とあの言葉に励まされた。
遠く離れていても、まるですぐそばで見守ってくれているようだった。

あの日、さおちゃんにされた『お願い』は、私にとってはとても辛いものだった。
何度も何度も傷ついて、ようやく見つけた私なりの生き方。
それでも、それを捨てる勇気が湧いた。
さおちゃんとの出会いが、文字通り百八十度私の人生を変えてくれた。

本当に、本当に、ありがとう。さおちゃん。
あなたのおかげで私は今、とっても幸せです。

「――ミカちゃーん、早く行こー!」
「うん、今行くー!」

END.





著者:笹川愛奈
朗読:伊藤由紀
校正、校閲:種村拓己、高橋知世





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